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2011年5月19日木曜日

佐倉惣五郎

4年生の娘には毎日「音読」という宿題がでます。昨日テンポよく読んでいたのは

一番はじめは 一のみや
二は 日光の東照宮
三は 佐倉の惣五郎・・・と十まで続くもの。


さて、佐倉惣五郎。

江戸時代、4代将軍家綱の時代1650年前後の人です。戦前に学校教育を受けた人ならほぼ間違いなく知っている名前だと思いますが、戦後教育の中では完全に抜け落ちた人の一人です。彼は「義民」として語られる人で、下総国印旛郡公津村の名主でした。今でいう千葉県佐倉市です。

領主の過酷な圧政に苦しんでいる村の人びとのために、その窮状を藩に訴え、それが功を奏さないとみるや、将軍に直訴までした人物です。将軍に直訴した罪で彼は磔の刑に処され、その妻子までも同様に処刑されてしまいます。しかしながら、彼の命をかけた訴えによりその領内での藩主の圧政はやんだと言われます。

何ともすさまじいほどの「義」を貫いたわけですが、後に福沢諭吉は彼をこのようにいっています。

人民の権義を主張し正理を唱えて政府に迫り、その命を棄てて終わりをよくし、世界中に対して恥ずることなかるべき者は、古来ただ一名の佐倉惣五郎あるのみ。
「学問のすすめ」第七編にある文章です。この第七編は「国民の職分を論ず」と題されたもので、政府がその分限を越えて暴政を行うとき、人民の分として為すべき挙は3つのみとして以下を挙げています。

節を屈して政府に従うか、力をもって政府に敵対するか、正理を守りて身を棄つるか

そして、次のように言います。
以上三策のうち、この第三策をもって上策の上とすべし。
この第三の策は、
正理を守りて身を棄つるとは、天の道理を信じて疑わず、いかなる暴政の下に居ていかなる過酷の法に苦しめらるるも、その苦痛を忍びてわが志を挫くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、ただ正理を唱えて政府に迫ることなり。
ということなのです。ですから、福沢は佐倉惣五郎を前述のようにいうわけですね。

ちなみに佐倉惣五郎は、その実在が疑われた人物でもあり、当然のことながらその義挙も本当にあったことなのか否かに疑問符が付いているようです(実在は確からしいですが・・・)。それが事実が否かはあまり重要なことではなくて、この義挙がたとえ作り話であっても、江戸時代からずっと「人」の生き方として伝承されてきたということに大いに価値があると僕は思っています。

今日はこれまで。

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