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2011年5月25日水曜日

平安

僕と同い年の友人。

彼は一人っ子で、確か中学生の事に父親を亡くし、母親一人に育てられた。その母親も3年前に亡くなり、彼の新築の家の仏壇に今はお二人ともおさまっている。

先日、仏壇にまいっているときに、彼の若い父親は、年をとってから亡くなった彼の妻(友人の母親)をどんな顔で迎えるのかなと考えたりして、なかなかその前から立つことができなくなった。死者は永遠に若いままだ。


故人老いず生者老いゆく恨みかな

という菊池寛の歌を以下のようにもじった人がいた。

故人老いず生者老いゆく痛みかな


吉田満。「戦艦大和の最後」の著者といえばわかってくれるだろうか。吉田にとって故人とは、亡くなった戦友であり、自らは生き残ったことへの負い目を「恨み」より「痛み」というもっと強い言葉で表現したのだ。

ホーキング博士が「死後の世界などない」と断言して、宗教界から抗議の声があがっているらしい。博士は、宇宙の誕生もすべて物理法則で説明できるため、神はいらないと言っているが、僕は死後の世界はあるかないかで考えるべき問題ではないだろうと思っている。そうではなくて信じるか信じないかの問題なのだ。この僕は、死後の世界というより、魂の不滅を信じているので、その魂の出会う場所が「死後の世界」というところならば、それはきっとあるのだろうと信じている。 そして、なによりもそれによって心の平安が保てるなら、そう思ったほうがいいだろうとも思っている。

死者に向かって「また逢いましょう」と声をかけるのは、いずれ自分もそこへ行く身だからということを確認する大事な儀式のような気がする。

というようなことを仏壇の前であれやこれやと考えていた。

今日はこれまで。

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