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2010年9月6日月曜日

民主代表選の裏の裏?

 読売新聞社による調査によると、次の代表に菅首相がふさわしいと思う人は66%、小沢一郎前幹事長は18%だったらしいです。


 悪役小沢一郎と戦う、庶民派首相という対立構図が完全に出来上がっていますね。これが、民主党の目論んだ作戦であったとしたら、すごいと思いますがどうでしょう。つまり、菅直人(民主党政権)の支持率を上げるために、わざと対立軸、それもこれ以上ないという悪役イメージの小沢一郎を持ってきて、それによって菅直人の人気を上げることを狙ったとすれば、その目論みは今の所大成功ではありませんか!


 「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」という故事があります。中国での聖人君子である堯(ぎょう)が、自らの政治がうまくいっているかどうかに疑問を抱き町へ出たら、一人の老人が「撃壌」という遊びに興じながら、あまりの面白さに自らのお腹を叩きながら(=鼓腹)、歌を歌っていたのを聞きました。その歌の内容は、「政治などおいらの暮らしに何の関係もない。日が出て働き、日が暮れて寝る。それだけのことだ」というもので、堯はそれを聞いて自らの政治がうまく行き、国がきちんと治まっていることを安心するといった故事です。


 「タックスペイヤー」という言葉があります。税金を支払う人間として、きちんと政治に関わろうというような意味合いで使われる事が多いですが、僕はその言葉が好きではありません。正確にいうと、その言葉が使われるであろう場面の議論なり、空気なりに違和感を感じるからです。理由は、今述べた「鼓腹撃壌」の故事にあります。


 国家の運営、否、市でも村でもいいのですが、その運営は単純なことではありません。そのすべてに自らがタックスペイヤーとしての責任を持てなど、不可能なことです。また、そんな世の中は真っ平御免だと思っています。


 政治への無関心がネガティブなイメージで語られることが多いですが、逆に考えればそれだけ曲がりなりにも政治がうまく行われてることの証左でもあると考えられます。例えば若者の政治への無関心、投票という行動に表れるその意識の低さよりも、僕は人間観、国家観というものの欠如の方がよほど恐ろしいことだと思います。


 
 

2010年9月1日水曜日

面白いけど無責任な展開・・・ありうるかも?

 菅・小沢会談が決裂しました。


決裂といっていいでしょうね、代表選を回避するつもりでそれがセッティングされたわけですから。


民主党の代表選など、僕は興味も何もありませんが、この国の総理を決めるとあっては無視もできないだろうといろいろ考えました。


 彼の目のうつろな御仁は、またしてもというか、決定的にというか自らの「馬鹿」さ加減をまた暴露してしまいましたね。首相を退陣した時、小沢一郎を道連れにして「クリーンな民主党に戻そう」と言ってた人ですよ。そして、自らは政界の引退さえもほのめかした・・・。その舌の根も乾かぬうちに(僅か3か月)、小沢一郎の代表選出馬を支持するとか・・・。


 さて、小沢一郎。世に「剛腕」「壊し屋」とか言われています。僕は彼にリーダーシップなんぞあるのかと疑問視しています。良い意味でのリーダーシップではなく、独裁だろうと・・・。彼の側近がころころ変わるからです。しかもかつての側近であった人は、彼のもとを離れると皆一様に反小沢になる。この人はおそらく人間的に欠陥があるのではないかと思ってしまいます。


 代表選で小沢が勝ったとします。それによって菅を支持していたグループは戦々恐々となります。完全に干されることの恐怖です。そもそも、小沢路線とは政策信条ではなく、肌が合わないと感じている人が菅を支持していると思います。おそらく反小沢グループは「小沢は民主党と合わない」とまで感情的な忌避感を持っていると思います。
 
 そこでです!


 衆議院の首相指名選挙で代表選で負けた反小沢グループが、野党と組んで菅、若しくは渡辺善美みんなの党代表を担ぐ!


 おお、政権交代ではないですか!


自民党内、民主党内にそこまでの策士がいるかどうかですが、まんざらあり得ない展開ではないでしょう。衆参のねじれも解消し、政策はスピーディに決定されます。


 しかも、山梨日教組を牛耳って来た輿石なる人間も、「友愛」などと口走る目のうつろな御仁も、みんな野党議員に転落。惜しむらくは日韓併合100年談話の発表を画策した千石なる人物が与党議員になるのは我慢しなければなりませんが。


 どうでしょうか?



2010年8月30日月曜日

アボガド発芽

アボガドの芽はいきなり「木」のようだ。土に埋めてから約2カ月かかったゾ・・・

第30回終了

 第30回が先週26日に終了しました。
 
 5月に「226」について話して以来、久々に出席して話してきました。
僕にとってはかなり思い入れのあるテーマなので熱が入りましたよ。


この国の今の在りように多大な影響を与えてしまっている「東京裁判史観」なるものの欺瞞と、半世紀以上にわたってそれに束縛されてしまっているこの国のでたらめさが少しでもわかって頂けたら幸いです。


 物事をきちんと仕分けすればわかる事なのですが、「戦争」というとどうもそれが出来なくなるようです。講義の中でも話しましたが、「アンネの日記」という、ユダヤ人少女の迫害の物語が反戦の文脈の中で語られることがいかにおかしいことか、もう一度説明します。


ナチスドイツはユダヤ人を計画的に抹殺しようとし、実際にそれを行いました。第二次大戦中にそれが最も大々的に行われました。これは戦時下において行われた「殺人行為」であり、「戦争」とは一切関係ありません。ですから、それが「反戦」の文脈の中で語られることはおかしいのではないかというのが僕の主張です。


 それともうひとつ。根元的なことですが「戦争(=争い)」は絶対になくならないということについてです。政治討論番組を見て下さい。双方が自らの主張を言いあうのみで、いつまでたっても平行線でしょう?その主張において絶対にわかり合う事はないです。そうなった時、「討論は無用」と当然なりますね。討論が無用となった時、両者の関係は「無視」するか、もう一つは肉体言語ともいうべき「腕力」の行使という二つの選択肢しかありません。それを実際に行使するかどうかについては、相手に全て任されてしまいます。ですから、可能性としての「戦争=争い」は絶対に自己と他者の間に残るのです。僕のいう事は、こう云う事です。


 この国には「平和教育」とかいう言葉が普通に使われていますが、それは一体何のことなのか・・・。その反対は「戦争教育」?それも意味がわかりません。


 
 どんな「殺人行為」でも、結果だけでなく必ずその行為の原因となった事がらは必ず明らかにされます。そして、その原因(=動機)によって、情状酌量の場合もあります。これが不当だという人はいないでしょう。それが、なぜ過去のこの国の行為だけは、その原因を明らかにしようともせず、一方的に悪かったと言わされることを不当だと言わないのでしょう?


その状態について何とも思わないのでしょう?


それが僕には不思議でたまらないのです。








 
 


 

2010年8月25日水曜日

知ってか知らずか・・・笑止千万

本日(8月25日)付の日経社会面に、 「命のビザ」で有名杉原千畝よりも2年前にユダヤ人を救った旧陸軍軍人の記事が出ていました。国連難民高等弁務官事務所からの情報だとのことです。

 「埋もれた救出劇 再評価の動き
  国連が紹介準備」

 昭和12年、シベリア鉄道経由で満州国に流れてきたユダヤ人難民を旧陸軍軍人が救ったというのがあらましです。この軍人は樋口季一郎、当時陸軍少将です。満州国ハルピンの特務機関長だった彼は、ソ満国境のオトポールで満州国に入国できずに困窮しているユダヤ人を救い、外国への移住の道を開いたのです。救った難民の数は5千人~2万人とも言われ、はっきりはしていないそうですが、新聞記者の不勉強でしょうね。樋口の名はイスラエル建国の父として、ゴールデンブックにその名を刻まれています。そのことは記事には出ていませんでした。

 さらに言うならば、この樋口の行動は当然軍上層部にも政府中央にも知られましたが、彼は処分は一切受けませんでした。ドイツから強硬な抗議があったのは言うまでもありません。既に日独伊防共協定は締結されていました。ドイツとの友好の維持は重要ではありました。それでもユダヤ人を救ったこの樋口の行動にお墨付きを与えたのは、満州国をその強い支配下に持つ日本の関東軍にあって、参謀長を務めていた東条英機です。東条はドイツからの強硬な抗議を「日本には『八紘一宇』の精神がある」と強硬に突っぱねたといいます。調べれば当然わかるこのことを知らずに記事にしたのか、もしくは知っていて東条英機は無視したのかよくわかりません。

 浅田二郎の新作「終らない夏」は、終戦3日後、8月18日に占守島(北方領土)の日本軍守備隊と、突然攻撃をしかけてきたソ連軍との死闘を小説にしたものらしいですが、この部隊の上級司令部の軍司令官がこの樋口季一郎でした。武装解除後、ソ連は樋口を戦犯として逮捕しようとします。多大な被害を受けた仕返しでしょう。しかし、ソ連のこの動きを察知し、世界中のロビイストを動員してアメリカに樋口逮捕の中止をソ連に働きかけるよう圧力を与えたのは、全米ユダヤ教会でした。彼らは樋口に救われた恩を返したわけです。

記事にいう「埋もれた」など、笑止千万!今ではWikiにも詳しく出ているですがね。

 正しく言えば「知られたくなかった」でしょうね。この記事を書いた記者氏は、「知られたくない」という日本悪玉論一辺倒の思潮をただ知らなかっただけだと思います。仮にも記者ならもっと勉強しなさい。

とはいえ、僕にとっては嬉しい記事でした。

2010年8月20日金曜日

不思議な光景です

 昨日、鳩山由紀夫の別荘に民主党議員が160人が集まったとか・・・。
盛んにニュースで取り上げられてます。
新聞によると、鳩山グループなるものは50人くらいいるんだとか。


 何度もここで、彼の御仁については批判してきました。
僕とは思想上の正反対にいるのだろうと思います。いや、彼には「思想」などないと思っています。
その時々で中身の空っぽな言葉を羅列しているだけだと思うのです。


 今日言いたいのは、その思想でも言葉でもいいんですが、その是非ではありません。
その彼のもとに集って来る人々についてです。


 派閥の長というのは、要するに「親分」です。政治信条を掲げて集って来る人々を束ねる。
当然、「子分」の面倒もみるでしょう。お金もあげるのでしょう。それについては、とやかく言いません。
かつての自民党の派閥がそうでしたね。派閥の長を総理総裁に担ごうと、子分はいろいろ動きました。
鳩山由紀夫が総理になって、子分はそれまでの苦労が報われたと思ったでしょうね。
「これで、我々の政治信条の実現ができる」と・・・。志をもって政治家になったのなら、当然そう思ったはずです。


 しかし、実際はどうでしたか?普天間を巡るごたごたは、彼の総理としての資質ではなく、僕は人間としての資質、厚み、教養の欠如等々があからさまにでたことだと思います。プロセス上の齟齬でもないですね。しかも「勉強すればするほど沖縄にいる海兵隊の抑止力の重要性がわかった」などと言ったといいますから、空いた口がふさがりません。


 そんな人間のもとに、なぜ変わらず50人も集っているのかが不思議でならないのです。
自分の信頼してきた人間が、実はまったくの見かけだおしだと気づいたら、普通は離れていくものではないのかな。
僕には、やはりお金目当てだろうと思わざるを得ないのです。しかし、それが50人もいるというのが驚きというか、不思議なのです。集って来る議員たちは、政治理念や信条の実現はどうでもよくて、ただお金をくれるからなんでしょうね。それ以外の理由が何かあるのか、僕には見当もつきません。


 あれ、結局彼の御仁の話になってしまいましたが、普天間の代替地を探る場として全国の知事を集めた会議がありました。石原慎太郎に、東シナ海でもめる中国との領土問題の意見を問われ、「中国と協議して・・・」と答えて、石原慎太郎に「馬鹿」呼ばわりされてました。同じ問題では大前研一にも「あんな馬鹿みたことない」とまで言われてました。


 漢字の読めなかった元総理も「馬鹿」とよばれましたが、それと領土という問題を認識できない「馬鹿」、総理としてどちらが大罪なのでしょう。


 彼の御仁は東シナ海を「友愛の海として云々」と放言しましたが、それをいうなら、160人もの人が集えるその軽井沢の別荘地を「友愛の地」として、付近の人々に開放してから言ってほしいと思います。




 

2010年8月18日水曜日

65年前の終戦記念日を思う 補筆

 本日(8月18日)日経社会欄に、釈放された「A級戦犯」らの陳述書が載せられていました。
秦郁彦(近代史、戦史を専門とする学者)が、それへのコメントをだして、


「責任を感じていないような気がする」と・・・。




 さて、巷間「戦争責任」という言葉が流布していますが、果たしてそれは何を意味することなのでしょうか?


特に昭和天皇崩御の辺りには、非常に論壇を賑わしていました。曰く、「天皇の戦争責任はある」と。


 僕は、「戦争責任」という言葉の定義もせず、それを論議するのは「馬鹿」の所業だろうと思っています。


 それは「戦争を起こしたことの責任」でしょうか?戦争という行為が、いかに感情的に忌避されようと、国際法上はきちんと認められている以上、それを「起こす」ことへの責任などあるわけがない。もしかしたら、それは「敗戦」の責任のことをいっているのでしょうか。「敗戦責任」、この国を敗戦に導いた責任は、当時の軍部をはじめとする政策の意思決定者にはあり過ぎるほどあります。それは、日本国民に対する責任です。供述を残した件の人々が負うべき敗戦の責任です。ただし、中には「敗戦」という責任を負わせるほどの地位にあったとは思わない人も多かったのは事実です。


 おそらく、「政治責任」という言葉もそれに包含されるでしょうね。「敗戦の政治的責任」ということではないでしょうか。


 
 大日本帝国憲法の3条に「天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ」とあります。大日本帝国下の戦争は、すべてこの憲法下で行われたことになりますので、この条文がある以上は国政上「天皇に一切の責任」はないということになります。よく、会社の不祥事でトップが経営責任を感じて辞職することがありますが、それと天皇の地位を結び付ける議論があります。しかしながら、会社のトップは、経営に関して全責任を負っているわけですから、「不可侵」である天皇とは全く異なりますね。物事をよく考えればわかることです。




 ところが、厄介なのが「責任」というものはいわば「道義」の上からも問われることが多いことです。例えば、僕が好きで始めたこの「3と1の会」ですが、曲がりなりにも30回という節目を迎え、毎月集って来る人を考えれば、最早僕が勝手に「や~めた」とは言えないでしょう。つまり、「始めた責任」が僕にあるということになります。僕個人は、それを十分に感じているつもりです。


 そのような「責任」を「道義的責任」とするならば、天皇にもそれは確かにあると思います。昭和天皇自身もそれはよく感じていました。「東京裁判」で起訴された被告たちを「自分が退位することで救う事はできないだろうか」と側近に漏らした事はよく知られています。また、「彼ら(戦犯の被告)は、国内法では罪人にあらず。かつての忠臣が裁かれるのは誠に忍びない」という言葉も知られています。


 おそらく、その「道義的責任」を日本国民の誰よりも感じていたのが昭和天皇であったと思います。








 
 「だってつぎはぎの服は決して恥ずかしい事じゃないって院長先生がおっしゃってたもん」


 この通りのセリフではなかったと思いますが、これは昭和天皇の学習院初等科時代のエピソードです。穴のあいた服を棄てようとする女官に対し、「つぎはぎをしてくれ」と言ったといいます。この院長先生は乃木希典のことです。昭和天皇は、幼少の頃、この老将軍から受けた薫陶を最も印象的であったと語っています。


 古今東西の元首の中で、幼いとはいえこのような事を口に出した元首は、昭和天皇ただお一人ではなかったでしょうか。
僕は勝手にそう思っています。





2010年8月16日月曜日

65年前の終戦記念日を思う その9 最終回

65回目の終戦の日も、猛烈に暑い日でしたね。


とうとう、現職閣僚がただの一人も靖国神社へ参拝しないという事態となりました。
国の命令で命を捧げた人々を、一定の宗教的儀式によって慰霊することを拒む国が、
他にどこにあるのか教えてもらいたい。


全国戦没者慰霊式典の模様が記事に出ていました。
最年少の参列者は4歳だとか・・・。
その4歳の幼児のインタビューも載せてましたね。
「戦いはこわい」とか。


なぜこの国は「戦争」となると、情緒的で感情情的な物言いしかできないのでしょうか?
それが不思議でたまりません。「戦争」が嫌かと問われれば、誰でも「嫌」と回答するでしょう。
そんなことは、ことさら取上げる必要はないと思うのは僕だけでしょうか?


悲惨さばかり強調され、その命を捧げたほどの献身、勇気については一向に触れられる事がありません。
泉下の日本人たちは、いかなる思いで後生の日本でくらす人々を眺めているのでしょうか?
そう、思うと暗澹たる思いになります。


「かくばかり みにくき国となりたれば
ささげし人の ただに惜しまる」







2010年8月11日水曜日

65年前の終戦記念日を思う その8

「常に国家をこの世の地獄たらしめたものは、
まさしく人が極楽たらしめようとしたところのものであった」
18世紀 ドイツの詩人ヘルダーリン


 僕は寡聞にして知らないのですが、古今東西の世界のどこに、かつての植民地支配を謝罪する国があるのでしょうか?
イギリスはインドに謝罪したのでしょうか?オランダはインドネシアに謝罪したのでしょうか?はたまた、フランスはベトナムに、スペインはフィリピンに謝罪したのでしょうか?


 今の価値観で、かつての事実を断罪することに何の意味があるのでしょうか?


 朝鮮半島の例をいうならば、その半島は日本にとって国防上、大変重要にありながら、時の朝鮮政府は近代国家ではなく、朝鮮政府にそれを任せる事ができないから、併合したまでのことです。半島の政治的安定は、イギリス、アメリカなどの列強も等しくそれを認め、国際法上きちんと進められたことです。


 もちろん、今の時代なら到底許される事ではありません。ただ、20世紀初頭ではそれが極めて普通のことでした。なぜそれがわからないのでしょう?僅か10年前ほどの映画を見ても、街中で歩き煙草をする主人公は多く出てきます。今ならできそうにないことです。なぜ、10年前はそれができたのかを問えば、「その当時はそれが普通だったから」と回答するでしょう。今はできないけどと・・・。


 
 さて、現内閣の閣僚は、今年は一人も靖国神社へは参拝しないそうです。菅首相も明言してますね「参拝しない」と。何でも「アジア重視」だとか・・・。彼の言うアジアは具体的にどこのことを指しているのか明らかにしてほしいですが、靖国参拝にいちゃもんをつけてくる国は、韓国と中国しかありません。その2カ国をもって「アジア」などと、人を誤らせるような言い方は謹んでもらいたい。なんでも、参拝しない原因は「A級戦犯」が祀られているからだと・・・。即ち、「侵略戦争の責任者」が祀られているからだということが原因だというのです。


 A級戦犯として裁かれ、終身禁固刑を受けた賀屋興宣という、近衛、東条の両内閣で大蔵大臣を務めた人がいます。彼は、1955年に仮釈放されたあと政界に入り、池田内閣では法務大臣を務めています。昭和30年代ですね。彼が法務大臣として、日本国政府の閣僚となったのを、韓国や中国は問題視しませんでした。もちろん、日本国内でも問題視する声など皆無・・・。同じく重光葵(禁固7年)は、鳩山一郎内閣で外務大臣を務めています。鳩山一郎は、ご承知の通りうつろな目の御仁の祖父です。重光葵は、鳩山一郎と共同で日本民主党を結成した人物でもあります。うつろな目の御仁は、自身の祖父が「A級戦犯」とともに政党を結党したこと、外務大臣として「A級戦犯」を起用したことを、きちんと説明できるのでしょうか?


 昭和20年8月15日に、日本国軍隊は無条件降伏し、9月2日に停戦条約が結ばれました。日本の戦争状態が国際法上正式に終ったのは、昭和27年「サンフランシスコ平和条約」が発効した4月29日です。つまり、日本は停戦後7年に渡り国際法上は戦争状態にあったのです。その平和回復後、生き残った人々は極めて真っ当な感情を抱きます。それは、「戦争は終わったのに、未だ帰国できないシベリア抑留の人、戦犯裁判で裁かれ未だ獄中にある人を救いたい」と。また、戦犯とされて処刑された人の遺族は、公的扶助(恩給)の資格がなく、困窮にあえいでいることを救いたいと・・・。


 これは全国で4000万人もの署名が集められ、国会で正式に議決されることになります。即ち、「戦犯裁判で刑を受けた人は国内法の犯罪人とみなさない」「恩給支給の対象者とする」と、至極妥当な議決です。ですから、戦「犯」などと、「犯」という字を使うのは本来なら憚られることなのです。靖国神社では彼らを「法難者」「昭和殉難者」としています。


 こういう、事実をきちんと大新聞は報じてもらいたい。




 大新聞といえば、日経で「戦争と言論人」とかいう特集記事が組まれ始めて本日で第4回でした。初回は石橋湛山でしたね。東洋経済新報社を創設したジャーナリストで、当時から「小日本主義」を標榜して日本の大陸進出には批判的な人物でした。そういう人間をこの国の大マスコミは崇めますね・・・。しかし、その記事を書いた日経の記者は、石橋湛山が東京裁判において「日本が受けた経済的圧迫」と「貿易なしでは生きられない日本の姿」を弁護側の要請によって提出した事は知らなかったと思います(ちなみに、この資料は裁判所に却下されました。連合国に不利だからです)。本日の「菊竹六鼓」の説明記事には、「彼は植民地主義を認めていた」と石橋湛山と比較して彼を非難する一節があります。どうでも、この国の過去を断罪しないではおれない、しかも断罪してそれを謝罪させなければならないという、妙な感情とは一体何なのでしょうか?


 と、つらつら考えると、冒頭のヘルダーリンの言葉になったわけです。







2010年8月6日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その7

 今日は、広島での平和祈念式典の日ですね。初めてアメリカから駐日大使が出席し、国連事務総長や、イギリス、フランスからも出席があるそうです。何れも初めてのこと・・・。何故、今この時期に初の出席となるのか?その真意はどこにあるのでしょうか。


 広島にはかつて仕事で延べ連続7日間の滞在を4回ほど繰り返したことがあります。仕事といってもほとんどがアルバイト管理だったので、昼間はよく市内をぶらぶらしてました。これ幸いとばかりに、こっそりと江田島の旧海軍兵学校まで足を伸ばしたこともあります。


 瀬戸内特有というのでしょうか、空気の重さが感じられるほどの蒸し暑さには閉口しました。


 広島平和記念公園内に、「安らかに眠ってください。あやまちは繰り返しませんから」と刻まれた碑があります。フィリピンはルバング島から30年ぶりに帰還した小野田さんが、それをみて「これはアメリカが書いたのか?」と発したのは有名な話・・・。


 8月6日に広島、9日に長崎とアメリカは2発も原爆を落とし、一瞬にして20万人以上の一般市民を虐殺しました。


 戦争はより多くを殺した方が勝利を得るという、およそこの世で考えられる中で一番残酷なものですが、それでもその中にはルールがあります。例えば、捕虜の扱い方や一般人の殺害を禁止するなどです。いわゆる戦争犯罪といわれるものは、このルール違反を問われたものです。


 東京裁判では、昭和12年12月から1月にかけて日本軍が国民党政府の首都南京で軍民20万人以上を虐殺したといわれる「南京大虐殺」なる事件が裁かれました。今では30万人以上と犠牲者の数が増えているようですが、これは大変不思議な事件で、当時日本軍と一緒に行動した日本の100名以上の報道関係者のほぼ全員が、現地で大虐殺があった事など、見た事も聞いた事もないと証言しています。しかしながら、裁判で集められた検察側の証拠は、すべて取り上げられたにもかかわらず、弁護側が提出した証拠はほとんどが却下され、しかも証人への反対尋問も完全に認められませんでした。


 仮にそれが事実だったとして、その年の7月から12月まで激戦を繰り返してきた軍隊の、狂気ともいえる見境のない殺人と、上空から投下レバーをひいて原子爆弾を落とした殺人に違いがあるのでしょうか。原子爆弾の投下だけにとどまらず、東京で一夜で10万人を殺害した東京大空襲も、同じように一般市民の殺害で戦争犯罪に問われるべきなのです。


 
 さて、フランス人でエマニュエル・トッドという学者(社会学者かな?)がいます。かなり日本でもその翻訳が出版されていますが、出版社は左翼系の藤原書店で、かなり反米的要素が強い本だと思います。僕は彼の著作を未だ読んだことはありません。最近、ネットで知ったのですが、その彼を朝日新聞が招いて講演してもらったらしいのですが、呼ばれた彼はこう言い放ったそうです。


「日本は唯一の被爆国として、世界で唯一の核保有国になる権利を有している。なぜ核を保有しないのか」


 朝日新聞は慌てたでしょうね・・・。


 

2010年8月5日木曜日

僕の国家観とマッカーサー証言

 本日の日経記事によれば、任期わずか6日間の参議院の当選議員に1か月分の歳費が出るのはおかしいとの声に、日割りで支給するという案が出されたそうですが、驚くことにすんなりとは決められなかったようです。当選新人議員の中には、「前の衆院選では任期2日で1カ月分が出たのに不公平ではないか」という声もあがったそうです!なんというあさましさなのでしょうか?そういう人間は実名を出してほしいと思います。「修身治国平天下」という言葉を知らないのでしょうね?そんな人間にこの国のことをとやかく言ってほしくないと思うのは、僕だけではないでしょう・・・。
 結局、今国会で成立したのは、「自主返納できる」ということになり、日割り計算を法案化することは次回の国会に持ち越されたそうです。大マスコミ様には、誰が自主返納し、誰が自主返納しなかったかを実名で報道してほしいと思います。




 さて、本題。


 今日は僕の考えている国家観みたいなものと、それに関連したマッカーサーの証言を紹介してみたいと思います。


 参院選の後にも思ったのですが、この国の政治家に限らず、言論一般は非常に内向きになっているような気がしています。外に関わり合う程の余裕が国内にないからでしょうか?景気は先行き不透明、国家財政は破綻しそう等々の内憂は、外へ向けての思考の回路を閉ざしているかのようです。そんな中で僕はこれからの日本はどのような国家であるべきなのかを、漠然とですが次のように思っています。


 私欲の為に弓矢は取らぬ。
 ただ筋目を持っていずこへも力を貸す」

 この上杉謙信の言葉は以前、ここでも紹介しましたが、僕はこの国はこうであるべきだろうと思っています。世界中のあらゆる困っている国々に援助の手を差し伸べる。軍事力の行使すらタブー視はしない。いうならば「道義国家」こそが、この国の理想像だと思っています。誤解のないように言っておきますが、「軍事力の行使」はある種の警察力の発動の一種だと考えて下さい。例えば、デンマークはアフガンへ兵力を派遣してます。非常に少数ですがね。「テロ根絶」は国際社会の務めだと思っているからです。僕は、日本もそうあるべきだと思っているのです。その基準は「筋目」、即ち「道義」でしょう。必要な国には医療も、食糧も、物資だけでなく人間もどんどん派遣して助けてあげればいいのです。国連が介入する紛争地域での停戦監視団には、どんどん自衛隊を出すべきでしょう。グラミン銀行みたいなものも、日本政府が出資して多くの貧しい国に作ってやればいい。そしてこの国の学校教育は、初等教育時から「道義」という、ようするに道徳観念を教えればいいのです。「人の役にたちなさない」と。僕は、教育というもの、特に初等教育においては、どんな国であるべきなのか、どんな国民であるべきなのかということが定まっていなければならないと思っています。

 この国に生きる1.2億人は、自国市場だけでその生存を賄えないのは、昭和初年からかわっていません。かつては、主食であるコメの自給率も低く、国外から輸入せざるを得ませんでしたから。海外から食糧を輸入するだけでなく、「一番」であるはずの「ものづくり」ですら、材料が輸入できなければ形にすらならないじゃないですか。ということは、世界が平和で経済・貿易に対する協調主義が世界のコンセンサスにないと息の根をとめられてしまうのです。かつてあった「貿易・関税に対する一般協定」通称GATTは、第二次大戦前の各国の保護主義的な経済政策が戦争の惨禍をもたらしたとする反省からつくられたのですよ。だから、世界の平和を担保するため、もうひとつは困っている国、人々を助けるという、道義に立脚した外交政策が、日本には必要だろうと思っています。もちろん、困っている国、人々を助ける裏には「資源外交」もあります。将来の資源を確保するためでもあります。

 さて、ここまで来てようやくマッカーサーの証言についてです。朝鮮戦争時、中国北部(かつての満州国)への進行と、原爆投下を進言して、トルーマン大統領に首をきられた彼は、帰国後米国議会の上院軍事外交合同委員会で次のように証言します。

「潜在的に日本の擁する労働力は量的に質的にも、私がこれまで接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。(中略)これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし、彼らには手を加えるべき原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」

 もう少し説明しますと、マッカーサーは、日本の経済的事情から、あの戦争は自衛戦争だったと証言したのですが、もうひとつ重要なことがあります。彼は、朝鮮戦争で怒涛のように押し寄せてきた中国軍を完全に押し返し、半島全体を共産主義から守るにためには、半島の根っこである中国東北部、かつての満州国の領土にまでおしださないと、安全が担保されないと軍事上の必要を認識したわけです。ちなみに、満州を日本が領有したのも、当時は日本の領土だった朝鮮半島をロシアから守るためというのがその理由の一つです。

 マッカーサーの証言した当時の日本の姿と、今の日本に大きな違いはあるでしょうか?本質的には何も変わっていません。変ったのは日本をとりまく世界の方です。ならば、このせっかく変わってくれた世界の、戦争の無い状態を未来永劫続けていくために、そして、世界が保護主義に走ることなく、自他共存できる経済環境の存続と発展にあらゆる努力をこの国はすべきだだと思いませんか?それは「核廃絶」を願うなどということとは全くの無縁のことです。



 

2010年8月4日水曜日

東京裁判について

 毎年8月15日になると、政治家の靖国神社参拝の記事がマスコミを賑わします。新しいところでは「8月15日に参拝する」と明言した小泉純一郎でしたね。確か、その前日にこっそり参拝したのではなかったですかね。


 マスコミがことさら「それ」を騒ぎたてる様になったのは、1985年の中曽根康弘総理時の中国の干渉が始まってからのことです。それ以前の歴代の総理大臣は、例外なくきちんと公式参拝をしてます。中国と韓国が「A級戦犯が祀られているから」という理由で、総理の参拝を許さないとかいういちゃもんをつけ続けてますが、A級戦犯の合祀は1978年に行われ、翌年に発表されています。それから1985年までの6年間は、その両国は黙ったままです。それが急に1985年から、不当な干渉を言い募るようになるのです。もう、25年間です。四半世紀にもわたる期間、この国のある意味、民族感情、宗教意識といっていいと思うそれを、外国にかき回され続け、きちんとその主張をしようともしない。もううんざりします。


 「政教分離に反する」とかいう声がありますね。靖国神社に総理や閣僚が参拝する事は、それに違反しているというのです。そういうことを言い募る人々は、この国の1兆円を超す税金が、キリスト教や、仏教を教育の柱とする大学などへ私学助成金として支払われていることになぜ反対しないのでしょうか?教育の根本に宗教があることは、世界中の常識ですね。新渡戸稲造が「武士道」を著したのも、「あなたの国の教育に宗教教育はないのか?それなら、人間教育をどうやって行うのだ?」と外国人に尋ねられ、「日本の人間教育は武士道によってなされると発見してからだと、冒頭に書いてあります。


 国際基督教大学は名前のとおりキリスト教をその建学の精神に置いています。専修大学は「専修念仏」という浄土宗の言葉でしょう。教育の根本に、宗教があるのは極めて自然なことだと思いますが、政教分離と声高に叫ぶ人々は、そういう教育機関への公費支出を反対しないのは論理矛盾ですね。支離滅裂・・・。


 僕は、総理大臣が参拝するのは当然だと思っていますし、その事について他国にとやかく言われる筋合いのものではないと思っています。ごちゃごちゃ言われるその原因が東京裁判でのA級被告云々だそうですが、その東京裁判自体が、いかにでたらめで、不公正で、不正義なものなのか、次回の3と1の会で皆さんに紹介して共に考えて頂きたいと思っています。


 次回第30回は8月26日です。

2010年7月31日土曜日

65年前の終戦記念日を思う その6

1990年代初頭の映画「メンフィスベル」です。


『無傷の"メンフィス・ベル"で最後の任務に飛び立つ、若き戦士たちの運命は…!』

1943年。イギリスの米軍基地は、ナチス・ドイツへのB-17による危険な白昼攻撃を繰り返していた。そんな中、その白昼攻撃を最後の任務として迎えることになった10人の若きクルーたちがいた。彼らが乗り込むのは、24回の出撃で唯一無傷を誇る戦闘機"メンフィス・ベル"。それでも撃墜の恐怖は消えるものではない…。それぞれの夢と不安を胸に、若者たちは、いまドイツ本土の激戦区へ向けて飛び立つ!



以上、アマゾンより

B17というのは、米軍の爆撃機です。日本を爆撃したのはこれではなくてB29です。「戦闘機 メンフィス・ベル」と出てきますが、戦闘機に10人乗りこめるわけなく、これは「爆撃機」の間違いです。この映画、なかなか面白かったので、皆さんにもお勧めします。

 このビデオを自宅で英国の友人と観た事があります。私としては、対ドイツ戦なので日本人の僕としても、英国の彼としても気まずい思いはしなくていいだろうなという思いがありました。劇中、主人公であるクルーの最後の出撃の前日、基地内で地元の女性も参加するダンスパーティがあるのです。アメリカの戦争映画ではよく出てくるシーンですね。

「おまえの国は戦争中にダンスして、娯楽があったんだなぁ」

と一人ごちた僕に、彼は「No dance party?」と目を丸くして僕に聞き返したのが印象的でした。つまり、彼は第二次大戦中の日本と、現在の日本のギャップを知るわけもないし、当時の日本でも、自分等の国と同じように戦争中とはいえ、休息も娯楽もあったはずと思ったわけです。

「ダンスどころか、食べるものも飲む水をなかったところが多かった。多くは死ぬまで帰れなかった」

「!!!」(外人特有の大きなジェスチャー付き)

と、こんなやりとりでした。僕は彼相手に熱く語ろうとは思っていませんでしたし、ただそんな状況でも戦ったかつての日本人を立派に思っただけです。


「撃つに弾なく、食うに米なく、飲むに水なし」

日本軍の戦線で日常的に見られた状況を表すとこうなります。
「父よあなたは強かった」という軍歌があります。

「敵の屍とともに寝て、泥水すすり草を食み」
という歌詞が出てきます。これを米国人に教えたところ、「これは前線の悲惨な状況を訴える反戦歌か?」という答えが返って来たと、阿川弘之の本に出ていました。

僕はよく思います。かつてのこの国の人間が受け入れなければならなかった運命の下、果たしてこの自分に父祖と同じような振る舞いができるのだろうかと・・・。極限の状態の中でリーダーシップを発揮できるのだろうか、任務を果たす事ができるのだろうかと・・・。


2010年7月30日金曜日

心の食物

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりにも遠し
せめては新しき背広をきて
きままる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みずいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめの
うら若草のもえいづる心まかせに。


萩原朔太郎がこれを詠んだ大正時代には、一般庶民の海外渡航などは思いもよらぬことでした。今とは大違いですね。今は世界が狭くなりました。ただ、それがどれだけ僕らの人生を豊かにしたのかについては、疑問が残ります。「憧憬」は手に入れた刹那に「憧憬」ではなくなってしまうからです。心の中でずっと温めて続けている状態の方が幸せというような、ある種のつつしみみたいなものを一切、なくしてしまっていますからね、現在は。


若い時には旅をしろ、だとかよく言いますね。見聞を広めろとか・・・。僕はその言葉に否定的です。何の知識も、あこがれもなく、例えば海外へ旅へ出たって、心の中に残る事はそう多くはないと思うからです。逆に、常に自らを省みて沈思して心の中に「なにものか」を持っている人ならば、普段目にする何気ない日常の中に、海外で見る景色の素晴らしさ以上のものをみつける事ができるだろうと思うからです。




「われわれの人生に対する読書の意義は、一口で行ったら結局、『心の食物』という言葉が最もよく当たると思うのです」


「『心の食物』は、必ずしも読書に限られるわけではありません。いやしくもそれが、わが心を養い太らせてくれるものであれば、人生の色々な経験は、すべてこれ心の食物と言ってよいわけです。したがって、その意味からは、人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分と言えましょう。だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいとも言えましょう」


「ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らなねば、かえって人々を損なうようなものです。同様に人生の深刻切実な経験といえども、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなりましょう」


これは西田幾太郎の弟子であった森信三が「修身」の講義で述べた言葉です。


そういえば、カントの言葉にも「知識は経験とともに始まるが、思推思考がなければ盲目となる」がありますし、
論語の「学びて思わざれば即ちくらし 思いて学ばざれば即ち殆し」がありますが、ほぼ同様なことを言っていますね。


僕の読書の目的は、「この世の絶対の真実を知りたいがため」といえるかも知れません。そんなものはありはしないのかも知れませんが、それを究める途上に読書があるのかなと・・・。すなわち僕にとっては「読書」は修行の一つです。



2010年7月29日木曜日

「死刑」「人権」等々

 現法務大臣が、就任後初めて死刑を執行したことがニュースになっています。
その千葉恵子なる女史は、先の参院選で落選したまま大臣にとどまっており、その事について批判が多く出ています。閣僚は議員でなくても務めることができるので、それについてとやかく言うつもりはありませんが、彼女は名うての「死刑廃止論者」らしいですね。この時期に死刑を執行したことについては、痛くもない腹をさくぐられても致し方のないことだと思います。


 さて、新聞によれば世論調査で国民の85%は「死刑」に賛成しているそうですね。世の中の論調は何でもかんでも「民意民意」と騒ぎ立てていますが、それならばこの「民意」の結果を尊重すべきでしょう。しかしながら、僅か15%に過ぎない小数意見をなぜクローズアップするのか、僕にはよくわかりません。しかも、死刑廃止を叫ぶ人々は「人権運動家」とか言われています。「人権」って何だ?


 ニュースでもアムネスティの日本支部長とかいう女性が、「人間の命に関わる重要な決断」云々と、死刑の執行に関して落胆したとか言っていましたが、その支部長は罪なく殺された被害者の命に関しては、どう考えているのでしょうか?同じセリフを被害者の遺族に、面と向かって言えるのでしょうか?その彼女だけでなく、死刑廃止論者は必ず「国家が命を奪う」ということに対して、一様に疑義の念を差しはさんでいるようです。


 たとえ自分の家族が殺されても、その加害者を許すという、寛容で愛に満ちた人もいるにはいるでしょう。僕もそういう人を尊敬するにやぶさかではありませんが、それを万人に強制しようとするのは大きな間違いでしょう。仮に、死刑廃止論者が被害者の遺族に「死刑よりももっと辛い刑を与えるために」と、現行の「無期懲役」ではなく、「終身刑」を課そうと説得するのなら、僕もわかるのですよ。僕ならその説得には耳を貸しませんがね。でも、そうではないですよね、必ず命を国家が奪うのはよくないというのが、彼らの主張ですから。もちろん、無実の罪で死刑になる可能性は0にはなりません。裁判の錯誤は必ずあります。しかし、そうはいっても裁判というものを信用せざるを得ないのが、この社会に生きる人間の定め、悲しいかもしれませんが宿命です。近代というものは、個人から復讐権を取り上げ、国家にそれを与えました。世にはびこる「人権論者」は、その復讐権は「人権」の中には含まれないという理解なのでしょうか。僕には理解できません。


 毎週欠かさず見ていいた「クリミナルマインド」というアメリカのテレビドラマがあります。先日シーズン4の最終回でした。
89人ものホームレスやジャンキーをさらってきて、知的障害である自分の弟を利用して人体実験していた四肢麻痺で寝たきりの兄が、こう言うのです。「たとえ、陪審員が僕を有罪と認めて、僕が罪を負ったとして今の僕の境遇以上の罪があるのか?」と。米国は衆によっては死刑がありません。結局、その兄は妹を殺された遺族に撃ち殺されてしまいます。後味の悪いエンディングで、罪と罰についての根元的な問いを発している内容でした。


 
 根元的な内容といえば、この本です。




かなり売れていますね。この社会の様々な矛盾や対立をあげています。まだ全部読んでいませんが、これまでのところ、非常に面白い本ですよ。いつかこれを題材に議論できたらいいとは思いますね。


 この世の中に解ける矛盾や対立は非常に少ないのだなとわかります。

2010年7月23日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その5

 昭和20年8月に日本国軍隊が降伏をしなかったら、連合軍は秋に南九州へ上陸するオリンピック作戦、翌年の3月には関東地方に上陸するコロネット作戦を遂行する予定でした。後者の作戦においては「史上最大の作戦」として名高いノルマンディ上陸作戦をはるかに上回る規模の上陸作戦となる予定でした。


 一方それを迎え撃つ日本軍は、15歳から65歳までの成年男子を根こそぎ動員し、2800万人を組織化して最後の戦いを行う算段でした。全員に行きわたる兵器もあるわけでなく、もうほとんど自殺攻撃だけが残された戦い方でした。まさに一億総特攻です。これは戦術とか、作戦の名に値しませんね。もはや精神の戦い、いわば「心法」です。


 幸いなことに、そのような事態は避けられたわけですが、連合国は、九州への上陸作戦だけで約25万人の戦死者数を予想していました。特に、沖縄での軍民一体となった戦いに衝撃を受け、本土へ上陸したことを考えれば、そのくらいの戦死者数を予想し、かつ恐れたのです。


 日本が米国と戦ったあの戦争をよく言う人はまずいません。いわく、「無謀な戦争」「勝ち目のない戦争」「無計画な戦争」・・・。しかし、僕はこう思います。「今に生きる『合理的』な日本人は、あのようなことを二度としないと断言できるのか」と。
対米英戦は、技術水準、物量の差からみて到底勝算などないことは、皆わかっていました。論理的に結論を求めれば「敗戦」となることは自明の理でした。何でもかんでも合理的、論理的に考えようとするなら、当時の日本人は皆狂っていたことになります。


 ただ、こうも言えるのではないでしょうか。


「個人の人生において、合理的、論理的な説明が不可能なことを為す場合もあるのだから、国家や民族においても、仮に負けるとわかっている戦いに、あえて身を投じなければならないこともある」


 僕は、日米の戦いは太平洋を挟んで向かい合ったこの両国の宿命であったと思っています。




さて、「東京裁判」正しくは「極東軍事裁判」について、皆さんがどれほど知っているのかはわかりません。毎年8月15日になれば靖国参拝で「A級戦犯」云々と、マスコミをにぎわしますが、あの裁判の「振り」をした復讐劇の茶番は、今でもこの国の矜持を汚すことに一役買っているようにも思えます。


次回の3と1は、その「東京裁判」について皆さんの理解を深めてもらうために、僕が講師を勤めようと思っています。第30回の開催。8月26日に行います。場所は未定です。



2010年7月22日木曜日

65年前の終戦記念日を思う その4

 今日は終戦にまつわる秘話を紹介します。


愛媛県松山市といえば、「坂の上の雲」の秋山兄弟、正岡子規が生れ、夏目漱石「坊っちゃん」の舞台となったことで知られていますが、戦争末期の昭和19年末に「343海軍航空隊」という部隊が創設され、日本爆撃に大挙飛来する米軍機に日本海軍航空部隊最後の大戦果を挙げたことは知られていません。その部隊を創設したのは源田実大佐で、真珠湾攻撃時の航空参謀であり、航空の専門家として海軍部内にあって大きな発言力を持った人間でした。源田大佐は、日本の上空における米空軍の跳梁跋扈を何としても阻止すべく、当時の新鋭機「紫電改」で戦闘機部隊をつくり、その搭乗員も南太平洋に広く散らばっていた、各航空隊のエースを彼の政治力によって松山に集めるということやってのけます。


この頃、日本海軍の「零戦」は性能の面でもはや米軍機に太刀打ちできず、しかも搭乗員の技量も低下する一方でした。当時の日本の戦闘機は陸海軍含め1000馬力のエンジンでしかなく、一方の米国は2000馬力のエンジンを積んだものでした。新鋭機「紫電改」は海軍戦闘機の中で唯一2000馬力のエンジンを積み、しかも空戦性能を飛躍的に高める「空戦フラップ」という新技術が織り込まれた、まさに起死回生の期待を担う戦闘機でした。


源田大佐は、優秀な搭乗員、優秀な戦闘機を集めただけではなく、戦闘方法もこれまでとガラリと変えて、名人技に頼ることなく、常に編隊という組織で戦うことを徹底させました。空中での組織戦を支える高性能の無線機も完璧に揃えさせました。信じられないことでしょうが、それまでの海軍の航空機に装備されている無線機は、非常に性能が悪かったため、いざ空中にあがると手信号による意思疎通しかできなかったのです。


源田大佐のこの目論みは、大成功を収めます。爆撃機B29には目もくれず、ただその護衛戦闘機だけに狙いを付ける作戦は、紫電改の高性能、搭乗員技量の卓越さ、編隊戦という新作戦で、昭和20年3月の初陣で米国戦闘機50機を超える撃墜を成し遂げます。


しかしながら、たび重なる戦闘により優秀な搭乗員も次々と戦死し、かつ機体の補充もおいつかず、部隊の戦闘力を維持できずに最後は終戦を迎えるのです。


ちなみに、現在の旅客機は高度約9000mを飛行しますが、B29は高度約1万mを飛行してました。日本の航空機は、その高さで自由に戦闘する事ができず、しかも、航空機を落とすための高射砲もその高さまで届きませんでした。唯一その高さまで射程距離のある高射砲は、僅かに2門あるだけでした。


さて終戦後。源田大佐は、海軍上層部から秘密命令を受けます。それが「皇統を護持せよ」というものです。つまり天皇家の血筋を護れということです。連合国が天皇家の将来についてどのようにするか予断をゆるさかなった時、その血を継ぐものを護り、かくまうことを命じられたのです。


そのいつ解除されるかもわからない秘密命令は、8月19日になって部隊員に告げられ、23名がその任務につきます。終戦直後の具体的行動は、どこに皇統をかくまうか、その場所を探すことでした。数名ずつがグループになり、各地を歩いて回ったのです。


幸運なことに、その秘密命令はその目的を果たさずに済む事になります。その命令の解除式は戦後36年目の昭和56年に行われました。中には、いつ命令の発動が来ても良いように、ずっとその準備を怠らなかった人間もいたそうです。源田大佐は、その後航空自衛隊の制服組トップである航空幕僚長を務めたあと参議院議員となります。


この秘話をどうみるか、現在の視点からみればある種の迷夢かも知れません。しかし、「歴史」というものはこうした無意味ともいえるものにかける人間の情熱の集積が、その流れを作っていくものなのかも知れません。僕はそう思っています。

2010年7月21日水曜日

経済道徳合一説

 不定期ですが、日経朝刊に「200年企業」という記事の連載があります。あいまいな知識ですが、日本は創業100~150年超の企業が世界一多いとか・・・。本日(20日)のそれの冒頭は次のように始まっています。


『長寿企業の経営哲学や家訓の共通項を調べると、勤勉や創意工夫、倹約と並んで社会貢献・地域貢献を重視していることがわかる』


これを読んで思い出したのが渋沢栄一です。日本における「近代資本主義の父」ともよばれ、幾多の企業を輩出してきた渋沢栄一は、「経済道徳合一説」というものを唱えました。「論語と算盤」という本の中に出ています。
彼は、富を独占するのではなく、国を豊かにするために富を共有すべしと広く社会に還元することを説いたわけです。「226」執筆時にいろいろ調べましたが、かつてのこの国は超格差社会でした。貧しい者はとことん貧乏で、富める者は考えられないくらいに大金持ちでした。ただ、その頃の大金持ちの中で少なくない者は、優秀だが貧乏で進学できないこどもに学費を援助してやる、または広く美術工芸品等を集めて、今に残る美術館を作ったりと、富める者の果たすべき義務を果たしていました。米国では、今でも個人の名を冠した民間の奨学金制度が多く、貧しい家庭に育つ子供の学問への道は篤志家によって広く開かれています。


翻ってこの国はどうでしょう?かつてと違い、大金持ちが生まれにくい社会にはなっていますが、「篤志家」なる言葉は死語になりつつあるような気がします。

2010年7月20日火曜日

市場対国家





梅雨明けしたとたんに猛暑です。


この本、1999年に読んだ本です。既に11年前ですが、初めて読み返しました。名著です。買った当初、自民党総裁選に小渕、梶山、小泉の3人が立候補しました。田中真紀子が「凡人、軍人、変人」と彼ら3人を言い表した総裁選です。僕は、田中真紀子が大嫌いですが、彼女の言葉のセンスには舌を巻きます・・・。
さて、この時の総裁選に対し、新聞には「市場は誰を認めるか」というような記事が出ていたのを明確に覚えています。「市場」が総理を信任するなど、これまでの総裁選では何の考慮もなかったからです。で、買って読んだのがこの本です。
今は文庫にもなっているので、是非読んでください。非常に面白い本です。


印象的だったのが、第二次大戦後の英国の状況です。英国は、1954年まで食料の配給制度があり、キャンディですら1953年まで配給制度の対象になっていたというのです。これには驚きました。戦勝国ですからね、英国は・・・・。


大日本帝国の戦争目的の一つに「大東亜共栄圏」の建設がありました。これは、その基本思想はかつてのEC(ヨーロッパ共同体)と同じです。そのためにアジアから欧米諸国の植民地を一掃したわけです(もちろん、帝国にとっては資源目当てでした)。帝国は敗戦の憂き目に遭いますが、帝国が戦争をしたおかげで、植民地が独立できたことも事実です。そして、その結果が英国の没落・・・。果たして真の勝者は?と考えてしまいます。


市場は、競争によって成り立ちます。小泉改革と呼ばれたかつての規制緩和の大合唱は未だ記憶に新しいですが、竹中平蔵とともにその旗振り役を務めた中谷巌は、その大合唱の果ての日本の姿に、「自分は間違っていた」と反省の意を表明し、以下の本を著しました。




センセーショナルな題名ですが、資本主義を市場万能主義と読み変えればいいのではないでしょうか。ちなみにこの本は読んでませんが、彼の反省の意はいろいろな雑誌で取り上げられていたので、大方内容は推測できます。


計画経済がうまくいくわけがないのは、最早周知の事実。あのソビエトの壮大な実験の失敗は皆がわかっているはずですし、最大の共産主義国家中国の経済的発展は、その教義に従ったわけではなく、本来不倶戴天の敵であるはずの市場経済によるものです。資本主義=市場経済が自壊したのではなく、それを万能の如く崇めたのが間違いだったです。


経済の語源は「経世済民」。この言葉をもう一度考えるべきでしょうね。


僕は、モラルなくして経済なしと考えています。モラル=道徳がその根幹にあってしかるべきだと思います。これは市場での敗者のためにセーフティネットを整備するというテクニックとは別次元の問題だと思います。残念ながら、それを筋道立てて説明する見識は僕には未だありませんが・・・。漠然とそんな風に思っているのです。


管政権は、成長分野に集中的に投資していくと、自らの政権構想で公言してますが、その「成長分野」はどこにあるのか、官僚や政治家ならそれがわかるとでも思っているのでしょうか?僕にはどうもひっかかる言葉づかいであります。





2010年7月16日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その3

戦争中、海軍の中堅幕僚だった人々が昭和56年から始めた、「海軍反省会」と題した討議内容をまとめたのが、この本です。数年に渡って行われたらしいのですが、この本にまとめられているのはほんの一部です。未曽有の敗戦となったあの戦争についての海軍側からみた反省録となっています。「なぜ陸軍に引っ張り回されたのか」「なぜ硬直した人事制度しか採りえなかったのか」「なぜ難局を担う資質のある人間がトップにならなかったのか」等々・・・。電子兵器の遅れ、物量の差、開戦ぜざるをえなかった原因など、多くの事柄について反省をしていますが、突き詰めれば、「人」の問題に帰するという結論になっています。人事制度、教育を含めてです。

 ただ、ひとつ「なるほどなぁ」と目を開かされた意見がありました。少し説明を要します。

 日露戦争後、日本海軍は米国を仮想敵国とします。これは地政学上からいって当然の帰結でしょう。急激に海軍国として台頭してきた日本と、ハワイ王国を謀略によって併合までした米国とは、いずれ太平洋の覇権をかけて戦わざるを得ないとみたからです。

「来るべき日米戦をいかに戦うか」についてまとめられたのが「邀撃作戦」というもの。この作戦を根幹に海軍の軍備は進められていくことになります。これは、要するに太平洋を西上してくる米国太平洋艦隊を、待ち伏せて一気に艦隊決戦に持ち込み、日本海海戦の再現を目指すものでした。ただ、当然海軍力の差は歴然としてあるので、いきなり正面からぶつかったのでは勝ち目はない。そこで、まずは潜水艦によって米国太平洋艦隊を少しづつ沈め、さらには駆逐艦による夜襲により、相手の兵力をそぎつつ、彼我の兵力を五分五分として、最後の戦艦同士の艦隊決戦に持ち込み、勝利を得るというものです。これが海軍の対米国戦の根幹にあった作戦です。

ところが、いざ日米開戦すると、ご存じのとおり日本海軍はその劈頭に航空機によって米国の太平洋艦隊の基地であったハワイを急襲します。「邀撃=まちぶせ」から「先制攻撃」へと変更したわけです。米国は、この攻撃を受けたことによって、戦術を一変させます。多数の空母を集中的に運用し、航空機による艦船攻撃に変更するのです。日本から学んだことです。ところが、日本海軍は真珠湾攻撃でみせた戦い方に主軸を置くには至りませんでした。艦隊決戦をどうしても捨てきれなかったからです。

「反省録」で出てきた意見は、「邀撃作戦の方がよかったのではないか」というものでした。空母運用による作戦を否定してはいませんが、作戦の根幹を変えることはなかったではないかという意見でした。「いかに戦うか」について日本海軍は最後ま中途半端でした。米国海軍は一気に変えました。見事なほどに。

後世からみれば、あれ(真珠湾攻撃)で海戦の主役は航空機に移ったということは簡単ですが、当時はまだ五分五分だったのでしょう。米国はリスクを冒して航空機に主軸を移し、日本海軍はリスクを冒さずに中途半端であった。しかも、それまで積み上げてきた「邀撃作戦」への夢断ち難し・・・・といったところでしょうか。僕は、反省の中にそれが出てきた事に、例の「組織の不条理」でみた「合理的なるが故に不条理」という事を思い描く一方で、それは後世だから言えることであって、当時の情勢からみれば、その是非はわからなかったはずだと共感した次第です。


真珠湾攻撃の発案者は今でも著名な山本五十六連合艦隊司令長官です。海軍省、海軍軍令部ともにその作戦については猛反対をします。これまでの「邀撃作戦」とは相容れないものですし、リスクが大きすぎるとみたのです。山本五十六は「この作戦を許可しないならば職を辞す」といい、半ば恫喝して最終的にこの作戦許可を得るのです。時の軍令部総長(海軍の作戦の総責任者)永野修身は、「山本があれだけいうのだから好きなようにやらせてやれ」と・・・、こういったと言われています。成功したからよかったものの、失敗していたら大変なことでした。

同じセリフでその上司が判断して大失敗したのが、昭和19年3月に始まった「インパール作戦」でした。言ったのはビルマ方面軍のトップ川辺正三陸軍中将、言わせたのは配下の第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将でした。補給をまったく考慮しない無謀極まりない作戦で、当初からそれに反対する人が多くいたのですが、東条首相の意向もあり、最終的に許可されてしまいます。孤島ではないにもかかわらず、約9万人の兵力を投入して最終帰還者は1万人前後、戦病死4万人のうちそのほとんどが餓死と言われています。

牟田口中将は、戦後も「あれは部下が無能だったから失敗した」と言い続け、自身の葬儀の際にも会葬者に自己弁護を綴った紙を配布させたそうです。

20年近く前だと思いますが、靖国神社でその作戦が行われたビルマから持ちかえられた銃や、鉄兜、飯合が展示されているケースの前で、それを見ていた僕に話しかけてきた老人がいました。「私もビルマにいた」と・・・。その老兵は怨みつらみを一切言わず、ただ「国がこうまでして集めて来てくれてありがたい」と言っていました。僕はびっくりしてただ「御苦労さまでした」とだけ言うのが精いっぱいでした。その老兵もおそらく今は墓の下、しかし今でもあの老人の姿が目に焼き付いています。

アルピニストの野口健が、日本軍の遺骨収集を熱心に進めているらしいですね。いろいろな山のゴミ拾いはマスコミに取り上げられますが、そういった彼の活動は一切マスコミに登場する事がないのは何故なんでしょう・・・。

出るのはため息ばかりです・・・。



2010年7月14日水曜日

65年前の終戦記念日を思う その2

 敗戦後、海外の領土と占領地から引揚げてきた日本人の総数を想像できますか?
陸海軍人311万人、民間人318万人で総計629万人と推定されています。最も多いのは満州からの100万人で、以下中国本土、朝鮮半島、台湾と続き8割以上がいわゆる「大東亜共栄圏」からの引揚げでした。
現在の海外在留邦人数は110万人でしか過ぎないので、いかにかつての大日本帝国の海外進出が壮大な規模であったか想像できると思います。
 
 人口約4000万人で明治を出発したこの国は、飛躍的な経済発展を遂げていくのですが、所詮は農業国であり、かつ無資源国、この狭小な国土のみでは膨張する人口を養っていく事はできなかったのです。したがって、戦前は「移民」として海外へ渉人が非常に多かったわけです。そしてそれが国策でもありました。アメリカをはじめ、ブラジルやハワイなど、今は三世、四世なのでしょうが、当時の日本の国策を今でも現代の僕らに偲ばせます。貧しい国から豊かな国への人の流れは今でもありますね。当時はそれがもっと切実だったのだと思います。


 さて、「強制連行」とか言う言葉、かつてのこの国の悪鬼の如くの行いが、お隣の韓国、北朝鮮から糾弾され続けています。今もこの国に暮らす多くの在日韓国人はもとをただせば、それによってこの国に住まざるを得なかった被害者、犠牲者だと・・・。ちなみにこの「強制連行」という言葉は反日左翼の日本の学者だかジャーナリストがつくった言葉です。


 今日は、このあたりの歴史の事実をご紹介しましょう。


 いわゆる「強制連行」なる言葉の意味する、本人の意思に反して強制的に朝鮮半島から日本に連れてくることを出来るようにしたのは昭和19年2月からの「徴用」というものです。これには確かに強制力がありました。


 朝鮮半島での戦時動員が始まったのが昭和14年9月からです。最初は「自由募集」から始まりました。日本国内の炭鉱、工場での労働力確保ために始まりました。この14年時点で日本在住の朝鮮人は約80万人です。もちろん、すべてが自由渡航です。これは現在の在日朝鮮人の数よりも多い数です。


 昭和14年から16年の2年間で、朝鮮半島から日本への渡航者は107万人。このうち、前記「自由募集」で渡航した者は約15万人、それ以外の92万人が自由渡航者です。どちらも「好き」で渡航した人間です。


 昭和17年2月には、「自由募集」形式では思うように労働力が確保できないので「斡旋」という方式を採るようになります。これは、日本国内の事業主が朝鮮総督府に対して、必要とする人員の確保を斡旋を依頼するものです。強制力はありません。そして、昭和19年2月に思うように集まらない労働力を強制的に集める事ができる「徴用」を開始するのです。


 しかしながら、昭和17年1月から昭和20年5月までの約3年間の朝鮮半島からの渡航者は137万人。このうちの52万人が「斡旋」「徴用」による、国策が関与した渡航者でしたが、残りの85万人が自由渡航者です。


 お分かりのとおり、朝鮮半島から日本に渡航した人々は、その圧倒的多数が「自由渡航者」なのです。その大多数が「強制的に連れてこられた」というのは、事実を無視した虚像です。


 また、これは非常に重要な事ですが、昭和26年の日韓国交化正常化交渉。反日政策を精力的に推し進めていた李承晩政権時代ですが、ここで取り上げられたのは「韓国人被徴用者に対しての未収金」問題だけです。つまり、未払い給与を払えということだけです。日本が行ったとされる、人さらい同然の「強制連行」など、一言も触れられていません。


 この国には、なぜか自らの国を貶めることを生甲斐としている人間が多くいます。かつて世を賑わした「従軍慰安婦」問題なるものもそうですね。火を付けたのは日本人ですから。この国を断罪するために韓国まで行って、裁判の原告をさがして来るなど、常軌を逸した行動だと思いますが・・・。そういった人々は、かつての大日本帝国は悪魔の国だったと、歴史を捏造してまで、今のこの国に「反省しろ」「謝罪しろ」「金払え」と、声高に叫びます。仮にそれが主張するような「セックススレイブ」であったなら、大きな人間愛の発露で、かつて虐げられた人々に、救いの手を差し伸べたいのなら、先ずは自分の全財産を投げ打って件の人々にお金を与えたらいいじゃないですか。何故、そういうこともせずに、人(国)に「謝罪しろ」「反省しろ」などと言えるのか?僕には品性お下劣な見本としか思えません。さらに嫌になることは、テレビ、新聞等のマスコミもそういう人間の尻馬に乗っかっているということですね。政治家ですらそうです。


 僕は、この国の政治家の中にも、特に民主党の1年生議員に多いと思いますけど、中国、台湾、日本の三カ国の近代100年の歴史を知っている人は少ないのではないかと想像し、暗澹たる気持ちになります。台湾とは正式に国交が無い事すら知らないのではないか・・・。出るのはため息ばかりです。
 

2010年7月13日火曜日

65年前の終戦記念日を思う その1

 数年前にWOWOWでアメリカのテレビドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」という、第二次大戦の欧州戦線での米国部隊を主人公にした物語を放映してました。テレビドラマとはいえ、製作総指揮にスティーブン・スピルバーグ、トム・ハンクスが名を連ね、総製作費数百億という大作です。田村さん、ご存知ですよね?
 さて、今度はそのメンバーによる米国海兵隊を主人公とした「ザ・パシフィック」が同じくWOWOWで放映されます。今からとても楽しみです。


 さて4年程前、「硫黄島からの手紙」という映画が好評でしたね。今日は、その周辺の逸話を紹介します。


 1949年の元旦に、硫黄島で二人の日本兵が投降した。彼等は戦友達の玉砕も日本の敗戦も知らず、4年間昼間は地下壕に身を潜め、夜間に米軍倉庫から食料、衣服を盗み出し生きていたのだ。投降した時の2人は、長い地下壕生活で顔色は冴えなかったが、ふっくらと太っていたという。 

 その内の1人、山蔭光福元海軍二等兵曹は内地に帰還した後、警察予備隊の発足に際して志願するも、持病のヘルニアが原因で不合格となってしまう。恐らく失意の日々を送っていたであろうその人に、「硫黄島での4年間の思い出を書いてはどうか」と彼等の生還と、そのインタビュー記事を本国に送った米国人ジャーナリストが救いの手を差し伸べた。山蔭応えて曰く「四年間島で日記をつけていました。没収されるのをおそれて土に埋めて隠してきたのです。あれを掘り出して参考にすれば、きっと正確な記事が書けると思います。取りに行かせてもらえませんか。」 
NBC極東支局長であったその米国人ジャーナリストは、早速彼の硫黄島渡航を滞在1泊という条件付ながら実現する。1951年5月7日、彼を乗せた飛行機は硫黄島へ向けて飛び立った。山蔭は非常に嬉しそうだったと言う。 

 しかしながら、彼は日記を見つけられなかった。火山地帯のため、地形は大きく変動しており、かつての生活場所の変貌は想像以上だったのだ。 

 翌日の朝、飛行機の出発時刻を間近に控えた山蔭ら(エスコートの米軍人含む)は写真撮影のために硫黄島を象徴する摺鉢山へ向かう。山頂に着いた山蔭は感慨深げに海を見渡していた。出発時刻が迫り、彼は車に向かって歩き出した。 
だが、車まであと数歩というところに戻った彼は、突然踵を返して走り出し、あっという間に摺鉢山の断崖から太平洋めがけて飛び込んだのである。 

「太平洋へ死の跳躍」 

 彼の死を伝えた毎日新聞の見出しにはこう記された。それを間近に目撃したエスコート役の米軍人は次のように記している。 
「・・・山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メートル離れた地点であった。山蔭君は突然両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら狭い崖の突出部から身を躍らせた・・・」 

 件のジャーナリストはこう言っている。
 
「戦友の死霊に招き寄せられるように太平洋めがけてとびこみ自殺を遂げた」 

 山蔭は、硫黄島へ渡る直前岩手の実家へ帰郷し、「硫黄島で咲かせるのだ」といて鳳仙花の種を鞄にぎっしり詰めていったという。1925年生まれの彼は26年間の人生を、その最も過酷で地獄のようだった硫黄島で自ら終らせた。地下壕生活から生還して僅か2年4ヶ月余の人生だった。 

 彼を知る誰もが、そして死の直前まで一緒にいた米軍人でさえも 
彼がよもやそんな事を企んでいたとは思いもしなかったという。 
快活で喧嘩も強く、また几帳面な性格でもあったのだろう、彼は海兵団にいた頃から日記は欠かさずつけていて、1944年9月に硫黄島に立つ前にそれを実家に送ってもいる。 

 彼、山蔭光福を主人公とした小説「硫黄島」(著者菊村到)は1957年上期の芥川章受賞作である。 

 本日の出所「硫黄島いまだ玉砕せず/上坂冬子/文芸春秋」 
(この本は同島の遺骨収集に命をかけた元海軍大佐和智恒蔵が主人公)


 先日テレビで知りましたが、1944年7月のサイパン島の日本軍組織的戦闘が終了してからもゲリラ戦を展開し続け、日本軍の救援を信じ続けて戦い続けた陸軍部隊を主人公とした日本映画が製作されているようですね。唐沢寿明がその部隊長を演じるそうです。この部隊が日本の降伏を知り、正式に米軍に投降したのが昭和20年12月の事でした。

2010年7月12日月曜日

この結果を何とみるか・・・

 予想通り、与党民主党は大敗しましたね。管総理は、大敗の原因を自らが発言した消費税率の問題について、あまりに唐突にすぎたのが原因と一番最初に挙げてました。ところが僕はそうはみません。
大敗の一番の原因は、これまでの民主党政権に対しての評価だとみています。ヤフーの投票でも、それが最も多い大敗の原因でした。消費税云々とは違います。それをしっかりと認識してもらいたいと思います。やはり、前党首鳩山という人間のあまりの定見のなさ、しかもそれを支える人間が民主党内にいなかったことが、予想以上の失望を多くの人に与えたのではないかとみています。力もないくせに個人プレーに走った挙げ句があの迷走でした。外務大臣、防衛大臣、沖縄担当大臣は一体何をしていたのか?特に沖縄担当大臣は前原で、彼は米国でそれを認めている程の安全保障の専門家ですよ。鳩山という個人が辞めることで責任をとるだけではすまないと僕は思います。

未明の管総理の会見で、「民主党の国家観は?」と問われた彼の回答は「国民主権、あくまでも国民の生活が第一だ」と述べてましたが、果たしてそれは「国家観」でしょうか?そしてもうひとつ、「国民主権」という場合の「国民」とは誰を指すのか?ということ。そういう言葉の定義をきっちりと語ることが政治家に求められることだと思うのですがどうでしょうか?

1年で3万人を超える自殺者があり、人口比でみれば先進国中で最悪の事態が争点にもならず、韓国の哨戒船を魚雷で沈めた北朝鮮の問題、軍拡路線をひた走る中国、GDPで日本を追い抜いてしまう中国の台頭に、この国はどう向かっていくのかというビジョンを説いた政党があったのか?まさしく国家観の欠如!かつて三島由紀夫がこんなことを言っていました。

「やがてこの国はなくなろう。そして東洋の一角に経済共同体が残るのみ」

もはや「経済共同体」として残るのも疑わしい事態になってきているではないですか。考えれば考えるほど嫌になります。

2010年7月8日木曜日

救国論

 今月号の文藝春秋の巻頭は藤原正彦の「一学究の救国論 日本国民に告ぐ」でかざられています。僕は、彼のベストセラー「国家の品格」を読んだ事がないので、初めて彼の論を読みました。彼の主張はこの国の混乱の原因は、GHQと日教組にあるとし、「東京裁判史観からの脱却」によって、「誇りある国家を取り戻せ」ということで、まさに我が意を得たりといったところでした。

「東京裁判史観」なるもの。いつか皆さんにご紹介したいと思いますが、このめちゃくちゃな政治劇を金科玉条のように崇め奉っているこの国の姿は奇怪であるといいようがないと思っています。昭和16年11月26日に米国から突き付けられた最後通牒、通称「ハルノート」をご存じでしょうか?それまでの十カ月に及ぶ交渉の経過を完全に無視して「日本は明治維新前の四島に戻れ」と言ったに等しいこの文章によって、日本国政府は絶望するのです。「最早戦争しかない」と・・・。米国との戦争を欲していた政府高官、陸海軍人の高官はほとんどいませんでした。もちろん、中には勇ましい言を吐く軍人もいましたが、それが軍の総意ではありませんでした。勝てる見込みがないのは皆わかっていたからです。

もう少し敷衍しますと、交渉の重要案件は日本が中国本土からの撤兵に応じるか否かでした。日本国は満州国さえのこれば、中国本土からの撤兵も止むなしとさえ考えていたのです。それで米国が禁輸を解消するなら・・・。当時の米国世論は8割が戦争反対、ルーズベルト大統領も「皆さんの息子を戦場には送りません」といって大統領になったのです。欧州ではドイツが全土を席捲するような破竹の快進撃を続けていた時です。既にフランスは降伏し、英国は虫の息、ソ連も危ないという中で、米国民はそれでも対岸の火事であると見なし、戦争に反対していたのです。議会も反対でした。それをなんとしても打破して、欧州戦線に介入したいのが米国政府の意向、そのための生贄になったのが日本でした。

東京裁判において、日本の弁護団の一員だった弁護士米国人ブレークニーは、法廷で次のようにいいます。

「このような通牒を突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも米国に対して銃を持って戦うだろう」

彼は、「広島、長崎に原爆を落とした国が『平和に対する罪』で被告を裁こうとしている」と米国にとって痛い事を平気で裁判で述べるなどの正義の人でした。

東京裁判の判決で有名なのはインドの判事として臨席したパール博士(法学)でしょうね。彼は「日本無罪論」をかなりのボリュームでまとめて判事団に提出しました。

後日談ですが、朝鮮戦争で中国本土の爆撃を具申して解任されたマッカーサーは、その直後の米国上院の公聴会において、かつての日本の戦争を「自存自衛の防衛戦争であったと思う」と証言してます。

安倍総理の時でしたか、インドの大統領が国会で演説しましたが、その内容が日本のマスコミによって発信されることはありませんでした。その演説内容は、かつての大東亜戦争の意義を掘り起こし、日本に感謝の意を表す内容だったのです。

市井の庶民が切歯扼腕しても致し方のないことで、そういうことが煩わしいので僕はあえて目を閉じ耳を塞いでいますが、
かつて三島由紀夫が「絶対の青空」と言った夏の青空が広がる季節になると、つらつらそういことを考えざるにはいられないのです。