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2010年9月22日水曜日

組織能力とは その1

 のっけから恐縮ですが、日本史の復習です。

1853年ペリー浦賀に来る
1854年日米和親条約締結

このペリーの来航から明治維新までを「幕末」といいます。動乱の幕開けとなった出来事ですね。

ぺリーの来航は国中をひっくり返したような大騒ぎとなりました。このまま鎖国か開国するかの二者択一に幕府や諸藩の有志が大いに揺れました。江戸幕府は、最初のペリー来航時に1年間の猶予をもらいました。事は重大だから、1年後に返答すると言い、体よく追い返したのです。

ペリーを追い返した後、その1年間で幕府は何をしたのかといいますと何にもしなかったのです。僅かに、台場(砲台)を作り、沿岸防備に備えたくらいで、要求通り開国するか、国是を守って鎖国を続けるかの侃々諤々の合議を繰り返していたのみでした。しかも、幕府内に「人物」がおらず、何の定見もなかったため、幕政史上初となる諸藩の意見を広く求めるということまでしてしまい、結果的に幕府の権威を失墜させてしまうという事態まで引き起こしたわけです。

幕府という組織の能力が完全に失われてしまっていたことがわかります。では、いつ頃からそうなってしまったのでしょうか、ということを考えてみたいと思います。とはいえ、話は元禄時代へさかのぼります。


 本日はその1です。


 外食という商売が一般化したのは元禄時代と言われています。それまで食事を提供するという商売は日本の中になかったのです。さて、元禄時代というのは大まかに言って、5代将軍徳川綱吉の頃(17世紀末から18世紀初頭)です。この将軍の評価は現在では不当に貶められていると思います。曰く「犬公方」と。このことについては後述します。

 元禄時代は、日本の社会の大転換期でした。経済的に豊かになった庶民の文化を「元禄文化」と後世が名付けたことからも明らかです。確か、この頃にそれまで「憂き世」であった文字が「浮き世」と変わったと記憶しています。生産力も向上し、城下町には新しい商売が増え、人口も急増した時代なのです。今の日本の「都市」というのは、多くはこの頃に誕生してます。

 「初物食い」という習慣は、元禄時代から始まりました。即ち、この頃には流通経路が全国をおおっていたことを意味します。幕府は、「初物」に高騰する物価を抑制するため「初物禁止令」なる法律を出しています。これによると、生シイタケは正月から4月まで、茄子と枇杷は五月から、梨は8月から11月・・・というように。物価統制をねらったものです。

 薪を背負いながら本を読む二宮金次郎。彼は、貧しい伯父さんの家に預けられ朝から晩まで働き、夜には灯火の下で本を読み、「油がもったいない」と怒られる話があります。彼は18世紀末の人なので、元禄時代よりかなり後の生れですが、注目すべきは、この頃の農家には「灯火」があったと云う事。この灯火の普及は元禄時代からでした。生活時間が延長されたことを意味します。そして、それまで1日2食だったのが1日3食になったのです。

 「呉服問屋」という言葉が時代劇によく出てきます。有名なのが今の三井グループの元となる「越後屋」ですが、彼の主要顧客は、支配者層ではなく言うならば庶民層、若しくは全国の庶民層相手の呉服屋の卸問屋でした。当時のセレブであった大名や、旗本には従来からの商売人があり、そこへは容易なことでは参入できなかったため、ニッチの市場を狙ったといえるでしょう。つまり、ニッチな市場が存在していたという事実があります。

 井原西鶴が活躍したのもこの時代です。「日本永代蔵」「世間胸算用」などの彼のベストセラーは、要するに「金持ちは如何にして金持ちになったか」を書いたもので、今でいうなら「金持ち父さんと貧乏父さん」みたいなものでしょう。

 このような時代文化をつくりあげた背景には、年貢率の低下によって経済全体が活性化した事実があります。新井白石は綱吉が死んで後、幕政に参画した儒学者ですが、彼の著作に「とうとう年貢率が3割をきってしまっている」という記述があります。この頃は「三公七民」ですらなかったのです。

 ここで、誤解を解くために説明しておきますが、江戸幕府は中央集権政府ではなかったので、ここでいう年貢率は全国の諸藩共通ではありません。ここで言う年貢率は、あくまでも幕府の直轄地のことです。したがって、全国に約260あった諸藩の年貢率がどうであったかは、僕の知識外です。もしかしたら、藩によっては圧政、年貢率はもっと高かったところもあったのかも知れませし、幕府に倣って同様の年貢率であったのかも知れません。ただ総じて、この頃は幕府同様の低い年貢率であったのではないかと考えられます。諸藩において一揆が頻発すると、幕府はそれを藩主に正すよう命じることができたからで、諸藩においては一揆の頻発はまさに「お家」の一大事であったからです。最悪は、領地の没収です。農民が圧政を幕府に直訴し、そうなった事例もありました。

 諸藩の財政が悪化していくのは、元禄時代からです。年貢率の低下、即ち収入の減収よりも、奢侈にながれた支出の過多が原因です。そして、収支が悪化した諸藩はその穴埋めのために、商人からの借金を常態化させていくのです。ところが、元禄時代の後期には早くもその踏み倒しが行われ、生産と消費をつなぐ流通を一手に担ってきた商人たちが没落していくという、バブルの崩壊が始まるのです。


 さて、五代将軍綱吉の時代は、このような時代でした。彼の治世下には「赤穂浪士事件」が起きています。綱吉は、自身が将軍になるにあたっての後継者選びのごたごたから、将軍になったときそれまでの老中やら奉行やらを全て罷免し、フリーハンドで将軍になりました。今でいえば、完全な政権交代ですね。それも主だった官僚すらも総とっかえできたのです。そしてその代わりに最も重用したのが、自らの小姓をつとめた家来であった柳沢吉安(この人の屋敷跡が六義園)です。彼は「側用人(そばようにん)」と言われ、老中でも奉行でもなく、今でいえば官房長官みたいなものでしょうか、幕政の実権を握っていくのです。それまでの禄高に応じた固定された人材登用のレールからは、決して出てこない人物です。綱吉は彼を信頼し、彼もその期待によく応え、史上初めて経験する経済の急速な拡大に対応していったのです。綱吉は、また「勘定吟味役」という今でいう会計検査院を創設し、お金の流れを専門に監査させました。綱吉は能力に拠り人材を抜擢したと云います。代表的なのが、荻原重秀という勘定奉行でしょう。今でいう大蔵大臣の役目はそれまで3000石以上の旗本の役職でした。彼は、勘定所に名を連ねる役人でしたが、その序列は一番下で、いわば木端役人でした。その荻原は、抜群の経済センスを発揮して様々な改革を行っていくのです。「関東総検地」「貨幣改鋳」などの事業がそうです。優秀な経済官僚でしたが、今その名を知る人はほとんどいないのは、後の新井白石の政敵であったからで、現在の歴史では新井白石を評価し、荻原、そして柳沢、綱吉を評価していないのです。

 
さて、「生類憐みの令」。後世悪名高いこの法令についてご紹介します。以前、ここで「ハムラビ法典」の法理というか、その背景についてご紹介しました。


 この生類憐みの令も、不当にネガティブな面だけが強調され過ぎている嫌いがあるように思います。そもそも、幕府は出した法令の中にその名を称する法令はないのです。各種ある、それらしきものを総称して後世がそう名付けたに過ぎないのです。そしてそれらしき法令を分類すると、広義のそれと狭義のそれの2種類があり、後世は狭義のそれしか見ていない。。狭義には、中野に設けられた犬小屋も出てきて、それが、後に綱吉といえば「犬公方」という以上で無能な将軍というイメージができあがってしまった原因でもあります。

 では、広義のそれはいかなるものなのか、長くなりましたので続きは明日にしたいと思います。触りだけ書きますと、綱吉の時代に限らず幕府は多くのそういった法令を出しています。その法理、背景は「戦国の遺風(下剋上)の一掃」「安定社会の実現」にありました。
 


 今日はこれまで。続く




2010年9月21日火曜日

彼岸過迄

 この3連休はいかがお過ごしでしたか?暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったのものですね。朝晩は涼しくなってきてホッとしています。


 タイトルは、夏目漱石の著作にあります。このタイトルに深い意味はなく、単に正月から始めて彼岸過ぎまで書く予定だからこう名付けたようです。






「僕はかつてある学者の講演を聞いた事がある。その学者は現代の日本の開化を解剖して、かかる開化の影響を受けるわれらは、上滑りにならなければ必ず神経衰弱に陥いるにきまっているという理由を、臆面もなく聴衆の前に曝露した。そうして物の真相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知ったとなると、かえって知らぬが仏ですましていた昔が羨ましくって、今の自分を後悔する場合も少なくはない、私の結論などもありはそれに似たものかも知れませんと苦笑して壇を退いた。」


 作中の一節です。この学者は漱石自身のことです。彼は、「上滑り」にならないかわりに「神経衰弱」に陥っていますしね、実際に。赤で強調したところは、おこがましい言い方ですが、最近の僕の塞ぎの原因にもなっています。




 
 哲学者の木田元という人が、今の「私の履歴書」に書いています。彼はハイデッガーの「存在と時間」を理解したいがために、農業専門学校から東北大学へ入学し直したと出ていました。僕はその著者ハイデッガーもその著作も名前だけは知っていますが、中身は読んだことがありません。今は昔と違い読みやすい翻訳書もでているのでしょうけど、とても読める自信がありません。「超約」的な簡易本があれば、読んでみたいかといえば、それは読む気にはなれません。やはり原書に近い形で読まなければ、きちんと理解したことにならないという頑なな気持ちがあるからです。その気持ちは、例えば高い山の上にあるp霊験あらたかな社寺に願をかけに行くのに、ロープウエーではなく自分の足を使って登っていかなければ御利益がないと思うような気持と一緒です。


 池上彰のいう「わかりやすい」というのは、そう考える僕にとって「敵」のようなものです。大体「わかりやすい」というのが、そんなに「美徳」になるものなのか、僕にはそれが「わかり」ません・・・。


 今日はこれまで。


 
 

2010年9月17日金曜日

運ばれきしもの・・・Tradition

ここのところ、めっきりと涼しくなりました。
人は勝手なもので、暑い時は寒い時を憧れ、寒い時は暑い時を懐かしく思う。
無いものねだりからははなれられないのかも知れません。


 30回の三と一の会で、僕は「女房と池上彰のことでよく口論になる」と云いました。口論のきっかけは池上晃の歴史認識で、「嘘」を「事実」としてまき散らす言説に僕が「テレビを消せ」と言うからです。世の中、嘘が平気で事実としてまかり通ることが多いと感じています。このブログでも江戸時代の貧農史観が本当か?ということを事実をもとに否定したことを紹介しました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html

 今なお人口に膾炙する全国の名産品と言うのは、享保期の徳川吉宗の時代に確立されていました。享保期というのは、稲作生産力が飛躍的に増大した時代でもあったようです。日本の農法というのは、明治30年に「明治農法」として確立され、それまでの在来農法とは一線を画し、生産力を増大させた近代農法とされているようなのですが、享保期から明治30年までの生産力と、明治30年から昭和初年までの生産力を比較すると、それほど変わっていないそうです。つまり、江戸中期以降の在来農法の水準の高さがうかがえるのです。


 「慶安の触書」。覚えていますか?徳川家光の頃、江戸初期に全国の農民に対して出された法令です。これも学校では農民の生活の一から十まですべて規定し、支配者の都合のいいように農民の生活を支配したものと僕は教えられました。これ、「嘘」です。


 この法令の意味、というか法の背景には、「この法令どおり生活をしていれば、百姓たち身代はよくなり、米や雑穀やお金もたくさん持てるようになる。そうして子々孫々までが豊かに暮らし、妻子を養う事ができる。そのためにの条件はただ一つ、年貢を納めることで、規定の年貢さえ納めれば、後は勝手気ままに暮らしてもよい」というものがあったわけです。


 話はずれますが、世界史で「ハムラビ法典」というものを習ったと思います。「目には目を歯には歯を」というものです。僕はつい最近まで、この法典を「なんて残酷な」と、中学時代に習った時の印象そのままに受け取っていました。ところが、この法典の背景は「目をつぶされただけなのに相手の命までを奪ってはいけない」「目をつぶされたら目をつぶし返すだけにしなくてはならない」という事にあったそうで、僕の最初の印象とは全く異なるものでした。


 「慶安の触書」もそれと同じく、その背景を知れば全く別のものになります。






 さて、今日のタイトル「運ばれきしもの」は、世界に冠たる日本の鉄道の定時運行についてが題材です。これ、西原さんがCCPMのプレゼンでその一部を紹介してます。


日本の鉄道一列車当たりの遅れは、新幹線が0.3分、在来線が1.0分。前者の95%と後者の87%が定刻通り発車しています(1999のデータ)。遅延は1分未満です。イギリス、フランス、イタリアでも概ね90%の定時運転率があるそうで、数字だけをみると、「世界に冠たる」という形容詞は付けられそうにありません。


 しかし、日本の統計では1分以上遅れた列車は全て「遅れ」としてカウントされていますが、外国の統計では10分や15分の遅れは「遅れ」と見なされていません。
フランスのTGVは91.8%の定時運転率を掲げていますが、「14分以上遅れなかった列車の割合」となっており、13分遅れた場合でも定時運転と見なされています。イギリス、イタリアでもほぼ同様で、日本のように「1分以上を遅れ」と見なしている国はどこにもないのです。


 日本の鉄道がこのように正確無比とさえいえる定時運転率をはじき出しているのは、コンピューターが発達し、巨大なシステムをコンピューターによって制御し出すようになった現代からではありません。少なくとも、大正初頭にはその運行がかなり正確になっていたようです。昭和初頭には、今と変わらぬほどの定時運転を常態化させていたようです。


 「『1分違わず』正確に運航する鉄道を富士山の山頂にたとえるならば、その広大な裾野にあたるものが、鉄道以前の日本社会に醸成されていたはずなのである」


 著者はこう述べあと、その裾野を形作ったものとして以下の3つを挙げています。


1.時鐘システム


 「たいへいの ねむりをさます じょうきせん たったしはいで よるもねられず」
1853年のペリー来航時の川柳ですが、眠れなかったのは船上にいるペリーもでした。陸上から聞こえてくる鐘の音があったからです。当時は町のあちこちに時の鐘があり、そこで暮らす人々に時を告げていたのです(12回/日かな)。つまり、人々は鐘の音を聞いて生活するという習慣があったということです。ペリーは、それが時を告げる音だとは知らなかったので、アメリカにはそれがありませんでした。アメリカだけでなく、ヨーロッパも同様です。日本だけがその時報システム(全国に時鐘の数は3~5万)があったと云われています。
 
 江戸時代の豪農や庄屋の記録には、日付だけでなく時刻までも記録されているそうです。農民も普請等で駆りだされる時には「朝五つに集合」とか言われてたらしいので、全国民に時刻感覚は醸成されていたはずだとしています。


2.参勤交代
 江戸幕府の権力維持のためのこの制度が、巨大プロジェクトを運営し、遂行する能力を培ったとしています。旅程、即ち工程管理も綿密でなければなりません。他藩と宿が重複しないよう調整もしなければならない。江戸に入る期限は決まっていたので、バックワードで計画を組んだはずです。様々な制約の中でいかにそれを成し遂げるかということを毎年繰り返すわけですから、列車運行という巨大で複雑なシステム運用にも多いに役だったはずだと。



 また、「江戸」という巨大消費地(生産地ではない)は、日本全国からの物資や働き手の流入を前提にして維持、発展することができたわけであり、そのことがまた交通の発展を促す原動力にもなったとしている。「下らない」という言葉の語源がそれを表していますね。全ては江戸を指向していたわけです。


3.旅の一般化
 江戸時代後期には庶民に至るまで「旅」というものが一般化していたからだとしています。交通のメリットを十分に知っていたと。庶民の長旅は、伊勢参宮を中心とする社寺参詣、名所旧跡めぐり、湯治の旅。お伊勢参りをした後に上方見物をして帰るというのは、庶民の旅の典型的なパターンだったらしいです。




 これは、まさしく父祖から受け継いだ日本人のDNAでしょうね。インプリントされたものでしょう。この「運ばれきしもの」が無い限りは、いかに完璧なシステムを築き上げようとも日本の定時運行は絶対に不可能でしょう。誰もが意図したものではないのに、結果的に後世にまで運ばれてきたもの・・・。それが伝統・・・。


 
 ここまで書いてきて、「フリードリッヒ・ハイエク」を思い起こしました。彼は、こんなことを言っていました。


「『フェア・プレイ』は、ルールブックに書き込むことはできないが、それが破られた時には誰もが容易にそれを指摘できる」


それは、言葉で定義し切れないものであるが、感覚として社会が持っているものであるとし、そして、その「感覚」こそが社会を秩序作る重要な要素であると。


この「感覚」こそ、冒頭に掲げた「運ばれきしもの」に他ならないような気がします。


 ハイエクは、こうも言っています。


「われわれは、人類の未来を計画的に作り出せるという幻想をふり捨てなければならない。これはこうした問題の研究に40年間を捧げてきた私の最終的な結論である」


この言葉には


「常に国家をこの世の地獄たらしめたものは、まさしく人が極楽たらしめようとしたところのものであった」


といったヘルダーリンと相通ずるものがありますね。ハイエクについては、また書きます。


今日はこれまで。

2010年9月16日木曜日

予想通り!

 「内閣支持率71%に上昇」


本日の日経記事です。


やはり僕の言った通り、「ほらね」と言いたい・・・。
はっきり言わせてもらうと、世の中これだけの「あほ」な民がいるということ。物事をきちんと考えればわかることです。
どのような設問かは知りませんが、菅総理でよかったかと問われれば「はい」が7割ならわかる。
でも、それを支持するかどうかは全く別の問題。


前に書きましたが、これを仕組んでやったのなら相当な策士が民主党内にいたことになりますね。


内閣改造、党人事について新聞は盛んに書いています。脱小沢路線か挙党態勢かと・・・。ある意味、小沢一郎という人間もマスコミが作りだした虚像だと僕は思います。マスコミはとにかく彼が嫌いらしい。万能の悪の化身みたいなイメージですからね。代表選後の「ノーサイド」を信じる人は誰もいないでしょう。埋めがたい溝、大きな禍根を残しましたね。


昨日は「9分間」菅・小沢会談があったとか。10分足らずとは驚きます。
小沢一郎は、6月の菅代表誕生の時は会談を拒否したんですよね。
自らの党の代表と会わないというのは、一体どういうつもりなのか意味がわかりませんね。
それが今回、対立して代表選に出たわけですから、選挙後の「ノーサイド」などあるわけがない。


 
同じく日経記事。


「日米関係のぎくしゃくぶりは、日中関係にも跳ね返っている。中国は明らかにわが国の足元を見て強硬姿勢をとっているのである。政治や経済の閉塞状況と、国際社会での孤立、あるいは社会の秩序、道徳の乱れなどは連鎖している。」


本日一面の「政治は再生するか【上】」で田勢康弘氏はこう書いたあと、以下のように続けます。


「政治の明確なリーダーシップがなければ、この状況から抜け出す事は難しい」




 まさしく、この通りだと思います。残念ながら民主党に限らず、自民党時代にもそれは明らかに欠如していました。その挙げ句が、今のこの国のありさまです。以前、中国政府の要人(江沢民?)が「日本という国はいずれなくなる」とか言ったらしいですが、それは現実になるかもしれないと絶望したくなります。


 政治家が民意によって選ばれるのなら、その民意のレベル以上の政治家はでないわけですから、政治の貧困を嘆くなら、民意、民度のレベルの低さを嘆くべきでしょう・・・。


 いつから、この国は「カネ」のことしか言わなくなったんでしょう。選挙の争点もすべて「カネ」ですね。鳴り物入りの「成長戦略」すら、結局は「カネ」のことです。こんな世の中なのに、人々はかつてホリエモンが「世の中金がすべてだ」というニュアンスの発言をした時、叩きまくりましたよね。公に関わる自らの関心事は全て「カネ」であるくせに、彼を叩く根拠は何なのでしょう。とどのつまりは自分にない「カネ」を、彼は持っているとうことへの嫉妬でしかないような気がしますがどうでしょう。
 
 消費税、年金制度、不況対策、すべて所詮は「カネ」の問題で手段でしかありません。考えるべきは、それを使ってどのような国にするかというビジョンでしょう。学校教育では「命」が大切と教えられ、それを使ってどう生きるべきかが教えられることはないように思います。「命」が大切なら、人間のそれも日ごろ食する豚や牛のそれも同価値。「人間の命」が大切なら、人間が牛や豚とどう違うのかを論じなければならないのにです。


 出るのはため息ばかりです。


 
 今日はこれまで。



2010年9月15日水曜日

新菅内閣の支持率





 予想です。

近々行われるであろう菅内閣への支持率調査は確実に参院選大敗時と比べて大幅に支持率があがります。
何の実績も、否方向性すら明確に出していないのに、この国の「世論」なるものは、そう判断するはずです。
なぜか?

 悪役「小沢一郎」と戦ったからです。

マスコミが騒ぎたてる「民意」などいうのは、所詮この程度のものです。
もうあほかと・・・。


 前にも紹介しましたが、好業績を長期に渡って続けている企業の社長の任期は全てが10年超。


社長の長任期が好業績を約束するわけではありませんが、一つの必要条件であることは確かなようです。そう考えると、自民党でも、民主党でも代表任期が2年というのは、あまりにも短すぎるような気がします。

 米国大統領任期は4年、仏国大統領任期は8年です。英国を長い停滞から脱却させたのはサッチャーですが、彼女は12年くらい首相を勤めていました。ブレア首相も10年近く勤めていましたね。国のかじ取りをするには、もう少し長い任期が必要でしょう。これだけ行政のトップがコロコロと変わったら、官僚組織がしっかりしていなければ、行政事務は間違いなく滞りますね。「霞が関をぶっ壊す」とか、一体何を言っているんだかと思ってしまいます。


 このところの民主党の喧騒を見ていて、つくづく思いました。それは人間の「質」というものです。どんなに気高い理想を掲げ、美辞麗句をならべたてようとも、それを口にする人間によって信じられもするし、馬鹿にされたりもする。ですから、個々の人間としては、「信頼するに足る」という人間、人格をつくりあげていかなければならない。その自己確立、教育なしに指導者にはなれないということ・・・。

 明治の陸軍は、ドイツからメッケルという戦術の大家と言われた人物を陸軍大学の教官として招聘しました。彼は、日本滞在中、関ヶ原の合戦の東西両軍の布陣図を見て、即座に「西軍の勝ち」と断言しました。結果は逆ですね。西軍は負けたのです。ただ、布陣図を見る限りでは、「鶴翼(かくよく)の陣」を布いた西軍と、そのふところに入らざるを得ない東軍となっており、戦術的には西軍の勝利だったのです。しかし、西軍の負けた原因は小早川秀秋の裏切りであり、それは布陣図では読みとれない。

 西軍の関ヶ原の敗因は石田三成の将としての器であったとされています。つまりは「人間の質」ですね。彼がもう少し広い度量を持っていれば、僕はあのような結果にはならなかったと思っています。彼は、決戦直前にも夜襲による奇襲を企てた島津や宇喜多の具申を拒否しています。島津はそれが原因の一つとなって戦場での傍観者となったとも言われています。

 
 さて、民主党の代表選に戻ります。

 二人はよく街頭演説を行っていましたが、あれは誰向けだったのでしょうか。投票できるのは民主党員かそのサポーターとか言われる人々。それ以外の大多数の人にとってはただ聞くだけの事です。恐らく、動員がかかった聴衆が多かったとは思いますが、その事の疑問を誰も抱かないのでしょうか。

 おそらく今後出てくるでしょう、「首相の国民公選制」に関わる議論。僕は、これに大反対です。所詮人気投票以外の何物でもないと思うからです。国民に人気はあっても、議会に対する影響力(数の力も含めて)が無ければ、そんなものは一切無意味です。今の地方自治制度がそうですね。首長と議会が対立したら、どれだけ有権者に人気がある首長でも一切の政策は通りません。国政でそんなことになったら大変な事態となります。

 現在の議院内閣制が最高の制度なのかどうかはわかりませんが、それを「良し」として信じるしかないと思っています。つまり、僕らは議員を選ぶ。選ばれた議員が最も多い政党が内閣を組織する。内閣の長はその政党内で影響力のある人間がなる。仮にも国のトップになるには、その所属する党内に子分がいない等という人間には勤まらないと考えるのは自然でしょう。「政策・理念に共感して」というのは綺麗事で、所詮はその人物の「質」になります。首相を国民の直接投票で選ぶことのメリットすら僕には不明です。

 「民意」とかいうもののいかがわしさについては、ここで紹介しました。


「民意」なるもののをなぜそんなに信用できるのか僕には理解不能です。


 
 今日はこれまで。















2010年9月14日火曜日

こんな日本でよかったね

 冒頭の言葉は、中国政府に贈ります。


恫喝を繰り返せば、この国は直に屈します。船長もすぐに釈放します。罰金もとりません。二度とこういうことが起こらないよう、話し合いしましょう。


 結末が見えてきて、もう、考えるのがあほらしいですな。そもそも、この国のマスコミは、「領海侵犯事件」と言わずなぜ「漁船衝突事件」と言葉をすりかえるのか。今回のようなケースの場合、領海侵犯船が領海国の船舶に体当たりしてきたというケースですが、普通の国ならば即刻その漁船を撃沈するでしょうね。


 
 


「こうして財政にも余裕が出てきましたが、庶民は苦しい生活を強いられていたのです」


これは、「まんがでわかる偉人伝 日本を動かした200人」の中の徳川吉宗を紹介した末尾のコマに書かれている文章です。女房が娘に買い与えたまんがなのですが、この文章は「?」です。今日はこのことを紹介します。


 「時代劇」で決まって悪役となる「代官」。どうもその言葉の前に「悪」とつけないと治まりの悪いような言葉になってしまっていますが、司馬遼太郎によると幕府が天領に派遣した代官というのは、その多くは人間的な質がよくで領民に対しても善政を布いたらしいですね。




 江戸時代の農民は、年貢の取り立てに追われて困窮し、むしろ旗を押し立てて一揆を頻発していたというようなイメージがあります。多くの人はそれをそのまま受け取ったままとなっていると思いますが、それは本当でしょうか。江戸時代の中期になると、年貢の率は四公六民、若しくは三公七民となっていました。そして、これはあくまでも「米」に関しての比率なので、「米」以外の農作物に関しては市場で自由に取引されていました。


 学校の歴史で「元禄文化」という言葉を習ったと思います。元禄文化は、それを担った主役が支配層ではなく、被支配層であったものです。たぶん、そう習うはずです。先ほどの言葉を借りれば「庶民文化」でした。江戸の中期です。その日暮らしの庶民に「文化」を生みだす余裕があるはずがありません。少なくとも江戸近郊の農民はかなりの生産余剰を持っていたことが簡単に推測できます。そしてその余剰分が江戸に住む町民層に流れたのです。


 同じく学校の教科書で「賄賂をもらう悪い奴」と教えられる田沼意次。彼は積極的に「新田開発」を奨励し、生産力を上げることに貢献した人物です。今なお地名に残る「新田」というのは、大体この頃の新田開発によるものです。


 「お伊勢参り」という言葉がありますね。江戸時代からある言葉ですが、「参」ったのは誰でしょう?先の言葉でいえば「庶民」です。苦しい暮らしを強いられていた庶民に、そんな娯楽が許されるでしょうか。


 江戸末期、日本に来た欧米人の多くが当時の日本の識字率の高さに驚いています。困窮庶民に「教育」の余裕があったのでしょうか。


 学校で教えられた江戸時代がいかに虚構か、これだけでもお分かりでしょう。まったく刷り込みというのは恐ろしい。最近では、江戸時代の色々が側面がかなり見直されてきて(本がたくさんでている)いますが、学校教育やらその周辺教材では未だに唯物史観全盛・・・。それをまき散らす彼らにとってみれば、封建社会である江戸時代が、そんな時代であったならば困るわけですね・・・。




 今日はこれまで。
 
 




 

2010年9月11日土曜日

厭世気分

 先日六本木の恐竜博に行ってきたことは、何人かに話しました。


そこで学んだことです。


 地球の誕生は46億年前頃でした。地球誕生から現在までを1年にたとえると次の様になるそうです。


地球誕生     1月1日
生命誕生     1月下旬から2月中旬
生物誕生     7月上旬から8月
最古の森誕生  12月2日
大量絶滅     12月12日
恐竜誕生     12月13日
大量絶滅     12月16日
恐竜絶滅     12月26日
人類誕生     12月31日午後11時37分


 地球の歴史と比べると、人類誕生してからは僅か20分しかたっていないらしいです。
文字が誕生してからとなると、僅か数秒?・・・・


 そう考えると、今の社会、生活のわずらいが何とも馬鹿らしくなってしまいます。




 昨日またかくてありけり
 今日もまたかくてありなむ
 この命何をあくせく
 明日をのみ思ひわずらふ


        島崎藤村「千曲川旅情のうた」より


今日はこれまで。

2010年9月10日金曜日

無能な善人と剛腕な悪人、他いろいろ

 タイトルの言葉は、自民党の山本一太参議院議員が民主党の代表選を称した言葉だそうです。本日の日経の寸言に出てました。「究極の選択」だと・・・。


 それを巡る最近の記事は、目を見張ることばかりです。例えば小沢一郎が勝ったら鳩山由紀夫の入閣とか・・・。彼は沖縄の基地移転問題をごちゃごちゃにし、日米関係まで危うくした責任者なのに、一体どういう了件なのでしょう。入閣させるなら北海道・沖縄の選任担当大臣にさせて、きっちりと最後まで責任を持たせたらいいと思うのですが。


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 経済ジャーナリストの多くは、好況の時は「政府の役割を小さくして市場にまかせろ」「規制緩和」だと言うくせに、不況になると「財政出動」「不況対策」だと政府の役割を増大させるようなことを言うのは支離滅裂ではないでしょうか。


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 菅総理が絶叫している「国の成長戦略」。僕にとって引っかかる言葉である「戦略」の使い方からすれば、たかだか自らの任期でのそれなら、「戦略」ではなく「計画」でしょうね。そもそも国に「成長」という分野がわかるのか、というのが素朴な疑問です。


 三品和弘曰く「経営は10年にして成らず」。これをかみしめれば、「種をまき、育成し、収穫する」これには10年かかるということでしょう。また一番の問題であり、多くの経営者が頭を悩ましているのが「どこに」種をまくかでしょう。それが外れれば、育成し、収穫する頃には二束三文となっている場合も多数あります。失敗を直ちに悟り、軌道修正できればいいのですが、それまでそのサイクルにかけたお金、人材等のコストを思えば、容易には後戻りできない。愚かと言われつつも無謀な白兵突撃を採用し続けた帝国陸軍と同じ轍です。


 「今撤兵したら、これまでそのために死んでいった英霊に申し訳が立たぬ」


かつての大日本帝国が中国大陸から撤兵しなかった理由のひとつは、「今事業中止したら、これまでかけたコストはどうなる」と、新規事業を続けてしまう理由と同様です。


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 今から20年程前、つまりこの国の経済がバブルであった頃、「政治三流経済一流」とよく言われてました。今では信じられませんが、当時の大蔵省の銀行局長(?)が、米国議会で「日本の金融行政」に関して講演をしたこともあったほどです。その頃の日本の都市銀行の扱い額が世界ランキングの上位を独占してたころです。


 トヨタと日産。この二大自動車メーカーの企業体力に大きく差のついたことが明らかになったのはバブル崩壊後。本業以外には手を出さなかったトヨタと、有価証券を買いまくった日産、その差によるものです(だったと思います)。


 山一証券の倒産と並んで世間を驚愕させたのが北海道の拓殖銀行の破綻。これもあぶく銭を追い求めた末路で、北海道内の拓殖銀行の後始末をつけたのが、一地方銀行に過ぎない北洋銀行。ここの頭取は学徒兵の特攻隊であった人物で、自らのその人生体験を自らに律することの柱とし、本業以外を堅く戒め、堅実経営を続けていたそうです。その人にも僕は「徳」を感じてしまいますね。


 もはや、「経済一流」等という人は皆無でしょう。


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 「日本で一番大切にしたい会社」。かなり売れましたねこの本。ここに描かれている会社の特徴は「損得」よりも優先させる「何か」を持っていることだと思います。それが結果的に良好な企業成績に結びついているに過ぎないのではないでしょうか。


 そう考えると、「徳」のある経営(例えば従業員を大切にしているとか、地域に貢献しているとか)をしているにも関わらず、それが企業業績に結び付いていない多くの会社も当然あるわけで、それは仕方のないことなのでしょうね。もちろん「企業」は「存続する事」が第一義的な使命ですから、その意味ではそれが危ういというのはその使命を果たし切れていないということになるのでしょうが、他に体現できている「何か」があればそれも評価して良いとは思います。


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 「努力は報われないということを初めて知った」と、ある著者はかなり売れている本の中で書いていましたが、僕はこの人「アホか」と思いました。幼いころから長ずるまでに、本でも映画でもいいのですが、そういうことを学ばなかったのかと・・・。
さらに恐ろしいと思うのは、そんな当たり前とうか、あほくさいことが書きつづられている本が売れているということ。世の中にはそういう人間が沢山いることが僕には不気味です。教養とか、そういうレベルではないですね。人間、あるいは人生というものに対する考え方の幅の狭さ・・・。そういえば、まーくんが言ってました。「新卒採用の学生のレベルが下がっている」と・・・。これからはもっともっと低下していくでしょうね。


 世の中は処世術ばやりです。売れている本を見て下さい。処世術とは、与えられた現実に対処するだけのものでしか過ぎません。今最も欠けているのは、人生、人間の不条理を知りつつ、尚自らの理想の生き方、暮らしぶりをみつけようという思想だと僕は思っています。「何になりたいか」と問えば、一様に職業の事しか答えません。大切なのは「どんな人間になりたいか」ということに答える姿勢であり、そのために学ぶことでしょう。


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 さて、冒頭で述べたことへ戻ります。


代表選で戦う二人の候補者は、ともに政策を語るのみであり国家観を語りません。最も注目されているのが具体的な経済政策、彼らの言葉を借りれば成長戦略らしいのですが、国家は経済だけで成り立つものではないでしょう。誤解を恐れずにいえば、外交もそれに関わる安全保障も、日本という国家が存続していくための「手段」でしかありません。やはりここにも「術」偏重のきらいがあるように思えます。世界の中でこの国が生きる道、果たすべき役割、そしてそれを担う国民はどういう日本人であるべきなのか、そういった「観」でも「ビジョン」でも語ってほしいと思います。あまりにも内向きな議論ばかりです。例えば日米関係が単に二国間の関係だけではなく、広くアジア全体の安全保障と密接に関わっているということを知らないのでしょうか。大軍拡国中国の脅威に対して、強固な日米関係というのがどれほど周辺国の安全を担保しているのかについて考えが及ばないのでしょうか。僕には不思議でなりません。


 自らの立ち位置を正確に把握していないのでしょうね。そういえば、かなり前「新党さきがけ」という政党がありました。目のうつろな御仁とともに、自民党を飛び出した人たちの政党で、細川内閣時の与党でした。この代表が武村正義(?)とかいう人でしたが、その頃彼が著した本の題名が「小さくともキラリと光る国日本」でした。小沢一郎が自民党時代に「日本改造計画」を出した頃と同時代です。僕は、武村なる人(この人は細川内閣で大蔵大臣)のセンスを「あほ」かと疑いました。この人のいう「小さい」というのは単に国土のことだけなのだろうと・・・。当時は断トツでGNP世界第2位の日本が、「小さい」わけがない。本の中身までは知りませんが、この人も日本という国の世界での立ち位置、影響力が全くわからない人でした。


 政治家ともあろう人が、そういうことに考えが及ばないというのは、僕はある種の犯罪だと思うのですが。


いろいろ書きなぐりましたが、今日はこれまで。




 
 


 
 

2010年9月9日木曜日

今日は小泉八雲

また、「明治」に書かれた文章からその一風景を語ろうと思います。とはいえ、かなり前に書いた文章です。


写真は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。
僕は、明治の日本の姿を残した彼の文章が大好きです。また、彼が熊本第五高等学校時代の校長は加納治五郎、同僚に秋月悌次郎がいるなど、彼の周りにはかつての支配階級であった武士が多くおり、後に、八雲は秋月を称して「神のような人」と言っています。秋月は、旧会津藩士で軍事奉行を務めた人間です。


彼の著作は講談社学術文庫から何冊か出ています。




 泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、激しい近代化の波の中で失われゆく明治日本の気骨と抒情を、深い愛惜の念で綴った次のような文章を1893年に残している。

 「旧体制で育った日本人は礼儀正しく、利己的でなく、善良で雅やかであった。それらはいくら褒めても褒めたりぬ美徳である。しかるに近代化された新世代の青年の間から、そうした美徳は消え失せてしまった。新青年達は旧幕時代を小馬鹿にし、自分自身は西洋の卑俗な模倣をするのがせいぜいで浅薄な月並みな懐疑論しか口に出して言えぬくせに、古風な生き方を笑い物にしている。先祖から受け継いだはずの高貴な愛すべき美徳の数々は今どうなったのか・・・。」そして更に言う。
 
「だがその過去へ日本の若い世代が軽蔑すべきものとして見なしている自国の過去へ、日本人が将来振り返る日が必ず来るであろう。ちょうど我々西洋人が古代ギリシャ文明を振り返るように。(中略)その時になって、彼らは嘆くに違いない。今は消え失せてしまった古風な忍耐や自己犠牲、古風な礼儀、昔からの信仰に潜んだ深い人間的な詩情・・・。日本人はその時多くの事物を思い返して驚きまた嘆くに相違ない。」と。

 1945年、それまで歩みを止めたことのなかったこの国が、初めて歩みを止めたあの夏の日以来、この国は彼のいう消え失せてしまった美徳を取り戻すこと、いや、過去に失われた美徳が存在したことなど認めようともしないまま来てしまっているような気がする。そして、21世紀を迎えた今でも、僕らの国には彼のいう「振り返る日」はまだ来ていない。

 
 
 これ、2001年の年賀状に書いた文章なんです。維新後間もない明治の頃でさえ、八雲をしてこういわしめたほど、旧体制の美徳というのは失われてしまっていたというのは驚きです。彼が今の日本人をみたならば、「人種が違う」と言うのではないでしょうか。


 今日はこれまで。

2010年9月8日水曜日

乃木の殉死と「こころ」

 昨日、乃木希典の評価の事を持ち出してここに書き綴った後、つらつら考えました。僕が言いたかった事は、今の世の中の価値判断は「有能か否か」であり、たかだか職業上での能力の高低がその人間全体を評価してしまっている事への僕なりの異和感を述べた積りでした。もっと言うなら、稼ぐ金額の多寡でさえ評価軸になってしまい、乃木が体現していたであろう「徳」を持つ人間への評価軸は今や無きに等しいと・・・。価値の基準が全て「損得」になってしまっているような気がするのです。それとは違う基準を「徳」があるかないかという福田和也の言葉を借りたわけです。福田自身も「有徳」といった基準、観念が失われてしまったことに、深い哀惜の情を綴っています。僕も痛切にそう思っています。


 
 さて、今日はその主旨とは外れて、再び乃木の殉死と夏目漱石「こころ」を題材に述べようと思います。


 
 乃木が知人に宛てた遺書は、乃木の殉死した直後に新聞に載りました。


「・・・・小生此度の処決は西南戦以来之心事に候得共斯く畏くも御跡を追ひ奉り候様の場合可有之とは予想も不仕恐入候儀に御座候空敷く今日を過候・・・」


 乃木は前線指揮官として従軍した西南戦争時に軍旗を敵に奪われるという負け戦をします。その申し訳なさにいつかは死のう、死のうとずっと心に刻んでいたというのです。




 夏目漱石の「こころ」の最後の部分に、乃木の殉死について語る「先生」の文章が出てきます。


「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く命じの影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を撃ちました。私はあからさまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然渡しに、では殉死でもしたらよかろうとからかいました」


「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。それから約一カ月ほど経ちました。御大喪の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと云いました。」


「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き遺して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きてきたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定してみました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうを思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。p私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。」


 皆さんのご承知のとおり、「先生」はこれを契機として「自殺」を考え実行していくことになります。




 吉田精一という国文学者は、「こころ」の解説に次のように書いています。


「漱石とは対蹠的な生活者であった永井荷風は、晩年の詩の一つの中で、『我は明治の子ならずや』とうたっている。漱石は荷風以上に、まさに『明治の人間』だった。そのモラル・バックボーンの骨太さにおいて、そのゆたかな向日性において、その東洋と西洋との深いところでの混淆において、彼はまさに明治精神の一権化であった。その漱石が『明治の精神』に殉死するために、彼自身は自殺しないまでも、心の体験として、長い時期にわたっての『罪』の意識を消却するためという理由を付けて、自分に代って『先生』に自殺の機会を与えたのが『こころ』だったのである。」




 今日はこれまで。





2010年9月7日火曜日

再び「坂の上の雲」 その功罪 乃木希典という人間

 以前にも書きましたが、同書は何度も読み返した本の一つで、僕の好きな本の中の一冊です。司馬遼太郎は、確か日清・日露の戦争を「祖国防衛戦争」だとはっきりと、どこかの本に書いていたと思います。また、同書についてはこのブログでも書きました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/06/blog-post_22.html

今日、取り上げたいのは同書で描かれている乃木希典のことです。


 第三軍を率いた乃木希は、同軍の伊地知参謀長とともに、軍事組織の中での「無能」の象徴として描かれていたように記憶しています。多大な犠牲を出しながらも無謀な正面突撃を仕掛け続け、旅順の要塞を落とす事ができず、結果的に上級司令部の参謀長児玉源太郎が派遣されて、攻撃目標を203高地に変更して後ようやく旅順の要塞を落とす事ができたと。乃木希は、その戦闘で2人の息子を失いましたね。同書を読むと、児玉源太郎の「株」は急上昇、乃木希典は無能な将軍で評価は最低でしょう。



 さて、ひところ学校教育の中で「偏差値」が悪の代名詞みたいなものとして使われ、今になってようやく路線変更をした「ゆとり教育」なるものも、「偏差値」一辺倒の中で少しでもそれを是正したいという表れだったと思います。物事をきっちりと考えればわかることですが、「偏差値」という統計上の数値がそんな悪者であるわけがなく、「悪者」はそれでしか子どもを評価しない、できない教育システムたと思いますがどうでしょう。「一芸入試」とかいう言葉もありますね。今もあるのかどうかわかりませんが、学校の勉強が出来なくても、何か人に自慢できる「一芸」があれば、それを評価するというものでしょう。それを否定する人はまずいないと思います。評価の視点を変えれば、いかようにも評価は変わります。一つの視点からしかみない事の功罪の事例を、学校教育の偏差値を例にして書いてみました。


 乃木希典に戻ります。


 若き大尉であったマッカーサーは、観戦武官として乃木の第三軍に同行しており、乃木の謦咳に接していました。占領軍総司令官になって日本に上陸した彼は、赤坂の乃木神社へMPの歩哨をたてさせたと言われています。日本の古武士の風格を匂わせた乃木に対して、どのような思いを彼が抱いていたかはわかりません。ただ悪意ではなく好意であったことは間違いありません。


 かなり前の東映映画に「203高地」というものがあります。そこで乃木を演じていたのが仲代達也です。僕はこの人が最もその役柄にふさわしいと思っています。凱旋後、明治天皇の前でその報告をするシーンが映画の最後に出てきます。乃木は、自身の報告をする際に多くの将兵を失ってしまったことを詫び、天皇の前で泣き崩れるのです。凱旋という華やかなイメージとは似ても似つかぬ光景で、この時の仲代達也の演技は圧巻です。おそらく実際もそうであったのでしょう。戦場での彼は、極寒の満州の地にあって常に外套なしだったと言われています。若い頃はかなり盛んに遊び回っていたらしいですが、晩年は常に自らを厳しく律することを課していました。前線視察の際にも自ら死を望んでいたような振る舞いもありました。彼は決して「功」を望んではいませんでした。


 乃木は、明治天皇の大喪の礼の後、その後を追って自害します。彼の殉死は、同時代人にとって衝撃でした。夏目漱石、森鴎外にとっても同様です。夏目荘漱石は「こころ」の中で、先生にそれを語らせ、森鴎外の「阿部一族」「大塩平八郎」「堺事件」はなどの歴史・史伝はその殉死に触発されて書かれたものだったと思います。


 「能力があるか否か」、即ち「有能か無能か」といった評価軸で、乃木を判断すれば「無能」であるかも知れません。また、彼の中に、児玉源太郎やら秋山真之に体現されている「奇略奇才の戦略家」、または勇猛果敢な軍司令官といったものは出てきません。福田和也という文藝評論家が書いた乃木の評伝に、「彼は『有徳』の人だった」と書いてあります。まさしく、乃木は「有徳」であったように思います。もうすでに「『徳』があるか否か」という評価軸は、この国からは失われてしまい、替わって幅を利かせているのが「有能か否か」です。しかし、一面でしか人間を評価しないことの愚かしさはよくおわかりのはずでしょう。その評価軸では乃木希典という人間は評価できないのです。


 西郷隆盛人気を考えてみましょう。維新の頃の西郷は「有能」でしたが、西南戦争の頃の西郷はそのかけらも見せず、ただ桐野や村田や篠原らの側近に担がれるのみで終始します。これも、このブログで紹介しましたね。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2009/07/blog-post_23.html

西郷の場合は、有能か否かは評価軸になっていないですね。しかし、なぜ乃木だけはその評価軸だけなのでしょうか。やはり「坂の上の雲」の影響かなと思ってしまう所以です。


   
 晩年の乃木が学習院の院長として昭和天皇の教育係だったことは以前、このブログで紹介しました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/08/65.html




明治天皇は、「有能か否か」ではない幅広い評価軸を持っていたと思います。そして、将来の天皇を教育することに「有徳」の人間を選んだのではないでしょうか。


   うつ志世を神さりましし大君の
   みあと志たひて我はゆくなり

 乃木の辞世です。「命は大切」という月並みな言葉を峻拒しているように思えます。




今日はこれまで。
 
 


 


 


 


 

2010年9月6日月曜日

民主代表選の裏の裏?

 読売新聞社による調査によると、次の代表に菅首相がふさわしいと思う人は66%、小沢一郎前幹事長は18%だったらしいです。


 悪役小沢一郎と戦う、庶民派首相という対立構図が完全に出来上がっていますね。これが、民主党の目論んだ作戦であったとしたら、すごいと思いますがどうでしょう。つまり、菅直人(民主党政権)の支持率を上げるために、わざと対立軸、それもこれ以上ないという悪役イメージの小沢一郎を持ってきて、それによって菅直人の人気を上げることを狙ったとすれば、その目論みは今の所大成功ではありませんか!


 「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」という故事があります。中国での聖人君子である堯(ぎょう)が、自らの政治がうまくいっているかどうかに疑問を抱き町へ出たら、一人の老人が「撃壌」という遊びに興じながら、あまりの面白さに自らのお腹を叩きながら(=鼓腹)、歌を歌っていたのを聞きました。その歌の内容は、「政治などおいらの暮らしに何の関係もない。日が出て働き、日が暮れて寝る。それだけのことだ」というもので、堯はそれを聞いて自らの政治がうまく行き、国がきちんと治まっていることを安心するといった故事です。


 「タックスペイヤー」という言葉があります。税金を支払う人間として、きちんと政治に関わろうというような意味合いで使われる事が多いですが、僕はその言葉が好きではありません。正確にいうと、その言葉が使われるであろう場面の議論なり、空気なりに違和感を感じるからです。理由は、今述べた「鼓腹撃壌」の故事にあります。


 国家の運営、否、市でも村でもいいのですが、その運営は単純なことではありません。そのすべてに自らがタックスペイヤーとしての責任を持てなど、不可能なことです。また、そんな世の中は真っ平御免だと思っています。


 政治への無関心がネガティブなイメージで語られることが多いですが、逆に考えればそれだけ曲がりなりにも政治がうまく行われてることの証左でもあると考えられます。例えば若者の政治への無関心、投票という行動に表れるその意識の低さよりも、僕は人間観、国家観というものの欠如の方がよほど恐ろしいことだと思います。


 
 

2010年9月1日水曜日

面白いけど無責任な展開・・・ありうるかも?

 菅・小沢会談が決裂しました。


決裂といっていいでしょうね、代表選を回避するつもりでそれがセッティングされたわけですから。


民主党の代表選など、僕は興味も何もありませんが、この国の総理を決めるとあっては無視もできないだろうといろいろ考えました。


 彼の目のうつろな御仁は、またしてもというか、決定的にというか自らの「馬鹿」さ加減をまた暴露してしまいましたね。首相を退陣した時、小沢一郎を道連れにして「クリーンな民主党に戻そう」と言ってた人ですよ。そして、自らは政界の引退さえもほのめかした・・・。その舌の根も乾かぬうちに(僅か3か月)、小沢一郎の代表選出馬を支持するとか・・・。


 さて、小沢一郎。世に「剛腕」「壊し屋」とか言われています。僕は彼にリーダーシップなんぞあるのかと疑問視しています。良い意味でのリーダーシップではなく、独裁だろうと・・・。彼の側近がころころ変わるからです。しかもかつての側近であった人は、彼のもとを離れると皆一様に反小沢になる。この人はおそらく人間的に欠陥があるのではないかと思ってしまいます。


 代表選で小沢が勝ったとします。それによって菅を支持していたグループは戦々恐々となります。完全に干されることの恐怖です。そもそも、小沢路線とは政策信条ではなく、肌が合わないと感じている人が菅を支持していると思います。おそらく反小沢グループは「小沢は民主党と合わない」とまで感情的な忌避感を持っていると思います。
 
 そこでです!


 衆議院の首相指名選挙で代表選で負けた反小沢グループが、野党と組んで菅、若しくは渡辺善美みんなの党代表を担ぐ!


 おお、政権交代ではないですか!


自民党内、民主党内にそこまでの策士がいるかどうかですが、まんざらあり得ない展開ではないでしょう。衆参のねじれも解消し、政策はスピーディに決定されます。


 しかも、山梨日教組を牛耳って来た輿石なる人間も、「友愛」などと口走る目のうつろな御仁も、みんな野党議員に転落。惜しむらくは日韓併合100年談話の発表を画策した千石なる人物が与党議員になるのは我慢しなければなりませんが。


 どうでしょうか?



2010年8月30日月曜日

アボガド発芽

アボガドの芽はいきなり「木」のようだ。土に埋めてから約2カ月かかったゾ・・・

第30回終了

 第30回が先週26日に終了しました。
 
 5月に「226」について話して以来、久々に出席して話してきました。
僕にとってはかなり思い入れのあるテーマなので熱が入りましたよ。


この国の今の在りように多大な影響を与えてしまっている「東京裁判史観」なるものの欺瞞と、半世紀以上にわたってそれに束縛されてしまっているこの国のでたらめさが少しでもわかって頂けたら幸いです。


 物事をきちんと仕分けすればわかる事なのですが、「戦争」というとどうもそれが出来なくなるようです。講義の中でも話しましたが、「アンネの日記」という、ユダヤ人少女の迫害の物語が反戦の文脈の中で語られることがいかにおかしいことか、もう一度説明します。


ナチスドイツはユダヤ人を計画的に抹殺しようとし、実際にそれを行いました。第二次大戦中にそれが最も大々的に行われました。これは戦時下において行われた「殺人行為」であり、「戦争」とは一切関係ありません。ですから、それが「反戦」の文脈の中で語られることはおかしいのではないかというのが僕の主張です。


 それともうひとつ。根元的なことですが「戦争(=争い)」は絶対になくならないということについてです。政治討論番組を見て下さい。双方が自らの主張を言いあうのみで、いつまでたっても平行線でしょう?その主張において絶対にわかり合う事はないです。そうなった時、「討論は無用」と当然なりますね。討論が無用となった時、両者の関係は「無視」するか、もう一つは肉体言語ともいうべき「腕力」の行使という二つの選択肢しかありません。それを実際に行使するかどうかについては、相手に全て任されてしまいます。ですから、可能性としての「戦争=争い」は絶対に自己と他者の間に残るのです。僕のいう事は、こう云う事です。


 この国には「平和教育」とかいう言葉が普通に使われていますが、それは一体何のことなのか・・・。その反対は「戦争教育」?それも意味がわかりません。


 
 どんな「殺人行為」でも、結果だけでなく必ずその行為の原因となった事がらは必ず明らかにされます。そして、その原因(=動機)によって、情状酌量の場合もあります。これが不当だという人はいないでしょう。それが、なぜ過去のこの国の行為だけは、その原因を明らかにしようともせず、一方的に悪かったと言わされることを不当だと言わないのでしょう?


その状態について何とも思わないのでしょう?


それが僕には不思議でたまらないのです。








 
 


 

2010年8月25日水曜日

知ってか知らずか・・・笑止千万

本日(8月25日)付の日経社会面に、 「命のビザ」で有名杉原千畝よりも2年前にユダヤ人を救った旧陸軍軍人の記事が出ていました。国連難民高等弁務官事務所からの情報だとのことです。

 「埋もれた救出劇 再評価の動き
  国連が紹介準備」

 昭和12年、シベリア鉄道経由で満州国に流れてきたユダヤ人難民を旧陸軍軍人が救ったというのがあらましです。この軍人は樋口季一郎、当時陸軍少将です。満州国ハルピンの特務機関長だった彼は、ソ満国境のオトポールで満州国に入国できずに困窮しているユダヤ人を救い、外国への移住の道を開いたのです。救った難民の数は5千人~2万人とも言われ、はっきりはしていないそうですが、新聞記者の不勉強でしょうね。樋口の名はイスラエル建国の父として、ゴールデンブックにその名を刻まれています。そのことは記事には出ていませんでした。

 さらに言うならば、この樋口の行動は当然軍上層部にも政府中央にも知られましたが、彼は処分は一切受けませんでした。ドイツから強硬な抗議があったのは言うまでもありません。既に日独伊防共協定は締結されていました。ドイツとの友好の維持は重要ではありました。それでもユダヤ人を救ったこの樋口の行動にお墨付きを与えたのは、満州国をその強い支配下に持つ日本の関東軍にあって、参謀長を務めていた東条英機です。東条はドイツからの強硬な抗議を「日本には『八紘一宇』の精神がある」と強硬に突っぱねたといいます。調べれば当然わかるこのことを知らずに記事にしたのか、もしくは知っていて東条英機は無視したのかよくわかりません。

 浅田二郎の新作「終らない夏」は、終戦3日後、8月18日に占守島(北方領土)の日本軍守備隊と、突然攻撃をしかけてきたソ連軍との死闘を小説にしたものらしいですが、この部隊の上級司令部の軍司令官がこの樋口季一郎でした。武装解除後、ソ連は樋口を戦犯として逮捕しようとします。多大な被害を受けた仕返しでしょう。しかし、ソ連のこの動きを察知し、世界中のロビイストを動員してアメリカに樋口逮捕の中止をソ連に働きかけるよう圧力を与えたのは、全米ユダヤ教会でした。彼らは樋口に救われた恩を返したわけです。

記事にいう「埋もれた」など、笑止千万!今ではWikiにも詳しく出ているですがね。

 正しく言えば「知られたくなかった」でしょうね。この記事を書いた記者氏は、「知られたくない」という日本悪玉論一辺倒の思潮をただ知らなかっただけだと思います。仮にも記者ならもっと勉強しなさい。

とはいえ、僕にとっては嬉しい記事でした。

2010年8月20日金曜日

不思議な光景です

 昨日、鳩山由紀夫の別荘に民主党議員が160人が集まったとか・・・。
盛んにニュースで取り上げられてます。
新聞によると、鳩山グループなるものは50人くらいいるんだとか。


 何度もここで、彼の御仁については批判してきました。
僕とは思想上の正反対にいるのだろうと思います。いや、彼には「思想」などないと思っています。
その時々で中身の空っぽな言葉を羅列しているだけだと思うのです。


 今日言いたいのは、その思想でも言葉でもいいんですが、その是非ではありません。
その彼のもとに集って来る人々についてです。


 派閥の長というのは、要するに「親分」です。政治信条を掲げて集って来る人々を束ねる。
当然、「子分」の面倒もみるでしょう。お金もあげるのでしょう。それについては、とやかく言いません。
かつての自民党の派閥がそうでしたね。派閥の長を総理総裁に担ごうと、子分はいろいろ動きました。
鳩山由紀夫が総理になって、子分はそれまでの苦労が報われたと思ったでしょうね。
「これで、我々の政治信条の実現ができる」と・・・。志をもって政治家になったのなら、当然そう思ったはずです。


 しかし、実際はどうでしたか?普天間を巡るごたごたは、彼の総理としての資質ではなく、僕は人間としての資質、厚み、教養の欠如等々があからさまにでたことだと思います。プロセス上の齟齬でもないですね。しかも「勉強すればするほど沖縄にいる海兵隊の抑止力の重要性がわかった」などと言ったといいますから、空いた口がふさがりません。


 そんな人間のもとに、なぜ変わらず50人も集っているのかが不思議でならないのです。
自分の信頼してきた人間が、実はまったくの見かけだおしだと気づいたら、普通は離れていくものではないのかな。
僕には、やはりお金目当てだろうと思わざるを得ないのです。しかし、それが50人もいるというのが驚きというか、不思議なのです。集って来る議員たちは、政治理念や信条の実現はどうでもよくて、ただお金をくれるからなんでしょうね。それ以外の理由が何かあるのか、僕には見当もつきません。


 あれ、結局彼の御仁の話になってしまいましたが、普天間の代替地を探る場として全国の知事を集めた会議がありました。石原慎太郎に、東シナ海でもめる中国との領土問題の意見を問われ、「中国と協議して・・・」と答えて、石原慎太郎に「馬鹿」呼ばわりされてました。同じ問題では大前研一にも「あんな馬鹿みたことない」とまで言われてました。


 漢字の読めなかった元総理も「馬鹿」とよばれましたが、それと領土という問題を認識できない「馬鹿」、総理としてどちらが大罪なのでしょう。


 彼の御仁は東シナ海を「友愛の海として云々」と放言しましたが、それをいうなら、160人もの人が集えるその軽井沢の別荘地を「友愛の地」として、付近の人々に開放してから言ってほしいと思います。




 

2010年8月18日水曜日

65年前の終戦記念日を思う 補筆

 本日(8月18日)日経社会欄に、釈放された「A級戦犯」らの陳述書が載せられていました。
秦郁彦(近代史、戦史を専門とする学者)が、それへのコメントをだして、


「責任を感じていないような気がする」と・・・。




 さて、巷間「戦争責任」という言葉が流布していますが、果たしてそれは何を意味することなのでしょうか?


特に昭和天皇崩御の辺りには、非常に論壇を賑わしていました。曰く、「天皇の戦争責任はある」と。


 僕は、「戦争責任」という言葉の定義もせず、それを論議するのは「馬鹿」の所業だろうと思っています。


 それは「戦争を起こしたことの責任」でしょうか?戦争という行為が、いかに感情的に忌避されようと、国際法上はきちんと認められている以上、それを「起こす」ことへの責任などあるわけがない。もしかしたら、それは「敗戦」の責任のことをいっているのでしょうか。「敗戦責任」、この国を敗戦に導いた責任は、当時の軍部をはじめとする政策の意思決定者にはあり過ぎるほどあります。それは、日本国民に対する責任です。供述を残した件の人々が負うべき敗戦の責任です。ただし、中には「敗戦」という責任を負わせるほどの地位にあったとは思わない人も多かったのは事実です。


 おそらく、「政治責任」という言葉もそれに包含されるでしょうね。「敗戦の政治的責任」ということではないでしょうか。


 
 大日本帝国憲法の3条に「天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ」とあります。大日本帝国下の戦争は、すべてこの憲法下で行われたことになりますので、この条文がある以上は国政上「天皇に一切の責任」はないということになります。よく、会社の不祥事でトップが経営責任を感じて辞職することがありますが、それと天皇の地位を結び付ける議論があります。しかしながら、会社のトップは、経営に関して全責任を負っているわけですから、「不可侵」である天皇とは全く異なりますね。物事をよく考えればわかることです。




 ところが、厄介なのが「責任」というものはいわば「道義」の上からも問われることが多いことです。例えば、僕が好きで始めたこの「3と1の会」ですが、曲がりなりにも30回という節目を迎え、毎月集って来る人を考えれば、最早僕が勝手に「や~めた」とは言えないでしょう。つまり、「始めた責任」が僕にあるということになります。僕個人は、それを十分に感じているつもりです。


 そのような「責任」を「道義的責任」とするならば、天皇にもそれは確かにあると思います。昭和天皇自身もそれはよく感じていました。「東京裁判」で起訴された被告たちを「自分が退位することで救う事はできないだろうか」と側近に漏らした事はよく知られています。また、「彼ら(戦犯の被告)は、国内法では罪人にあらず。かつての忠臣が裁かれるのは誠に忍びない」という言葉も知られています。


 おそらく、その「道義的責任」を日本国民の誰よりも感じていたのが昭和天皇であったと思います。








 
 「だってつぎはぎの服は決して恥ずかしい事じゃないって院長先生がおっしゃってたもん」


 この通りのセリフではなかったと思いますが、これは昭和天皇の学習院初等科時代のエピソードです。穴のあいた服を棄てようとする女官に対し、「つぎはぎをしてくれ」と言ったといいます。この院長先生は乃木希典のことです。昭和天皇は、幼少の頃、この老将軍から受けた薫陶を最も印象的であったと語っています。


 古今東西の元首の中で、幼いとはいえこのような事を口に出した元首は、昭和天皇ただお一人ではなかったでしょうか。
僕は勝手にそう思っています。





2010年8月16日月曜日

65年前の終戦記念日を思う その9 最終回

65回目の終戦の日も、猛烈に暑い日でしたね。


とうとう、現職閣僚がただの一人も靖国神社へ参拝しないという事態となりました。
国の命令で命を捧げた人々を、一定の宗教的儀式によって慰霊することを拒む国が、
他にどこにあるのか教えてもらいたい。


全国戦没者慰霊式典の模様が記事に出ていました。
最年少の参列者は4歳だとか・・・。
その4歳の幼児のインタビューも載せてましたね。
「戦いはこわい」とか。


なぜこの国は「戦争」となると、情緒的で感情情的な物言いしかできないのでしょうか?
それが不思議でたまりません。「戦争」が嫌かと問われれば、誰でも「嫌」と回答するでしょう。
そんなことは、ことさら取上げる必要はないと思うのは僕だけでしょうか?


悲惨さばかり強調され、その命を捧げたほどの献身、勇気については一向に触れられる事がありません。
泉下の日本人たちは、いかなる思いで後生の日本でくらす人々を眺めているのでしょうか?
そう、思うと暗澹たる思いになります。


「かくばかり みにくき国となりたれば
ささげし人の ただに惜しまる」







2010年8月11日水曜日

65年前の終戦記念日を思う その8

「常に国家をこの世の地獄たらしめたものは、
まさしく人が極楽たらしめようとしたところのものであった」
18世紀 ドイツの詩人ヘルダーリン


 僕は寡聞にして知らないのですが、古今東西の世界のどこに、かつての植民地支配を謝罪する国があるのでしょうか?
イギリスはインドに謝罪したのでしょうか?オランダはインドネシアに謝罪したのでしょうか?はたまた、フランスはベトナムに、スペインはフィリピンに謝罪したのでしょうか?


 今の価値観で、かつての事実を断罪することに何の意味があるのでしょうか?


 朝鮮半島の例をいうならば、その半島は日本にとって国防上、大変重要にありながら、時の朝鮮政府は近代国家ではなく、朝鮮政府にそれを任せる事ができないから、併合したまでのことです。半島の政治的安定は、イギリス、アメリカなどの列強も等しくそれを認め、国際法上きちんと進められたことです。


 もちろん、今の時代なら到底許される事ではありません。ただ、20世紀初頭ではそれが極めて普通のことでした。なぜそれがわからないのでしょう?僅か10年前ほどの映画を見ても、街中で歩き煙草をする主人公は多く出てきます。今ならできそうにないことです。なぜ、10年前はそれができたのかを問えば、「その当時はそれが普通だったから」と回答するでしょう。今はできないけどと・・・。


 
 さて、現内閣の閣僚は、今年は一人も靖国神社へは参拝しないそうです。菅首相も明言してますね「参拝しない」と。何でも「アジア重視」だとか・・・。彼の言うアジアは具体的にどこのことを指しているのか明らかにしてほしいですが、靖国参拝にいちゃもんをつけてくる国は、韓国と中国しかありません。その2カ国をもって「アジア」などと、人を誤らせるような言い方は謹んでもらいたい。なんでも、参拝しない原因は「A級戦犯」が祀られているからだと・・・。即ち、「侵略戦争の責任者」が祀られているからだということが原因だというのです。


 A級戦犯として裁かれ、終身禁固刑を受けた賀屋興宣という、近衛、東条の両内閣で大蔵大臣を務めた人がいます。彼は、1955年に仮釈放されたあと政界に入り、池田内閣では法務大臣を務めています。昭和30年代ですね。彼が法務大臣として、日本国政府の閣僚となったのを、韓国や中国は問題視しませんでした。もちろん、日本国内でも問題視する声など皆無・・・。同じく重光葵(禁固7年)は、鳩山一郎内閣で外務大臣を務めています。鳩山一郎は、ご承知の通りうつろな目の御仁の祖父です。重光葵は、鳩山一郎と共同で日本民主党を結成した人物でもあります。うつろな目の御仁は、自身の祖父が「A級戦犯」とともに政党を結党したこと、外務大臣として「A級戦犯」を起用したことを、きちんと説明できるのでしょうか?


 昭和20年8月15日に、日本国軍隊は無条件降伏し、9月2日に停戦条約が結ばれました。日本の戦争状態が国際法上正式に終ったのは、昭和27年「サンフランシスコ平和条約」が発効した4月29日です。つまり、日本は停戦後7年に渡り国際法上は戦争状態にあったのです。その平和回復後、生き残った人々は極めて真っ当な感情を抱きます。それは、「戦争は終わったのに、未だ帰国できないシベリア抑留の人、戦犯裁判で裁かれ未だ獄中にある人を救いたい」と。また、戦犯とされて処刑された人の遺族は、公的扶助(恩給)の資格がなく、困窮にあえいでいることを救いたいと・・・。


 これは全国で4000万人もの署名が集められ、国会で正式に議決されることになります。即ち、「戦犯裁判で刑を受けた人は国内法の犯罪人とみなさない」「恩給支給の対象者とする」と、至極妥当な議決です。ですから、戦「犯」などと、「犯」という字を使うのは本来なら憚られることなのです。靖国神社では彼らを「法難者」「昭和殉難者」としています。


 こういう、事実をきちんと大新聞は報じてもらいたい。




 大新聞といえば、日経で「戦争と言論人」とかいう特集記事が組まれ始めて本日で第4回でした。初回は石橋湛山でしたね。東洋経済新報社を創設したジャーナリストで、当時から「小日本主義」を標榜して日本の大陸進出には批判的な人物でした。そういう人間をこの国の大マスコミは崇めますね・・・。しかし、その記事を書いた日経の記者は、石橋湛山が東京裁判において「日本が受けた経済的圧迫」と「貿易なしでは生きられない日本の姿」を弁護側の要請によって提出した事は知らなかったと思います(ちなみに、この資料は裁判所に却下されました。連合国に不利だからです)。本日の「菊竹六鼓」の説明記事には、「彼は植民地主義を認めていた」と石橋湛山と比較して彼を非難する一節があります。どうでも、この国の過去を断罪しないではおれない、しかも断罪してそれを謝罪させなければならないという、妙な感情とは一体何なのでしょうか?


 と、つらつら考えると、冒頭のヘルダーリンの言葉になったわけです。







2010年8月6日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その7

 今日は、広島での平和祈念式典の日ですね。初めてアメリカから駐日大使が出席し、国連事務総長や、イギリス、フランスからも出席があるそうです。何れも初めてのこと・・・。何故、今この時期に初の出席となるのか?その真意はどこにあるのでしょうか。


 広島にはかつて仕事で延べ連続7日間の滞在を4回ほど繰り返したことがあります。仕事といってもほとんどがアルバイト管理だったので、昼間はよく市内をぶらぶらしてました。これ幸いとばかりに、こっそりと江田島の旧海軍兵学校まで足を伸ばしたこともあります。


 瀬戸内特有というのでしょうか、空気の重さが感じられるほどの蒸し暑さには閉口しました。


 広島平和記念公園内に、「安らかに眠ってください。あやまちは繰り返しませんから」と刻まれた碑があります。フィリピンはルバング島から30年ぶりに帰還した小野田さんが、それをみて「これはアメリカが書いたのか?」と発したのは有名な話・・・。


 8月6日に広島、9日に長崎とアメリカは2発も原爆を落とし、一瞬にして20万人以上の一般市民を虐殺しました。


 戦争はより多くを殺した方が勝利を得るという、およそこの世で考えられる中で一番残酷なものですが、それでもその中にはルールがあります。例えば、捕虜の扱い方や一般人の殺害を禁止するなどです。いわゆる戦争犯罪といわれるものは、このルール違反を問われたものです。


 東京裁判では、昭和12年12月から1月にかけて日本軍が国民党政府の首都南京で軍民20万人以上を虐殺したといわれる「南京大虐殺」なる事件が裁かれました。今では30万人以上と犠牲者の数が増えているようですが、これは大変不思議な事件で、当時日本軍と一緒に行動した日本の100名以上の報道関係者のほぼ全員が、現地で大虐殺があった事など、見た事も聞いた事もないと証言しています。しかしながら、裁判で集められた検察側の証拠は、すべて取り上げられたにもかかわらず、弁護側が提出した証拠はほとんどが却下され、しかも証人への反対尋問も完全に認められませんでした。


 仮にそれが事実だったとして、その年の7月から12月まで激戦を繰り返してきた軍隊の、狂気ともいえる見境のない殺人と、上空から投下レバーをひいて原子爆弾を落とした殺人に違いがあるのでしょうか。原子爆弾の投下だけにとどまらず、東京で一夜で10万人を殺害した東京大空襲も、同じように一般市民の殺害で戦争犯罪に問われるべきなのです。


 
 さて、フランス人でエマニュエル・トッドという学者(社会学者かな?)がいます。かなり日本でもその翻訳が出版されていますが、出版社は左翼系の藤原書店で、かなり反米的要素が強い本だと思います。僕は彼の著作を未だ読んだことはありません。最近、ネットで知ったのですが、その彼を朝日新聞が招いて講演してもらったらしいのですが、呼ばれた彼はこう言い放ったそうです。


「日本は唯一の被爆国として、世界で唯一の核保有国になる権利を有している。なぜ核を保有しないのか」


 朝日新聞は慌てたでしょうね・・・。