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2010年8月4日水曜日

東京裁判について

 毎年8月15日になると、政治家の靖国神社参拝の記事がマスコミを賑わします。新しいところでは「8月15日に参拝する」と明言した小泉純一郎でしたね。確か、その前日にこっそり参拝したのではなかったですかね。


 マスコミがことさら「それ」を騒ぎたてる様になったのは、1985年の中曽根康弘総理時の中国の干渉が始まってからのことです。それ以前の歴代の総理大臣は、例外なくきちんと公式参拝をしてます。中国と韓国が「A級戦犯が祀られているから」という理由で、総理の参拝を許さないとかいういちゃもんをつけ続けてますが、A級戦犯の合祀は1978年に行われ、翌年に発表されています。それから1985年までの6年間は、その両国は黙ったままです。それが急に1985年から、不当な干渉を言い募るようになるのです。もう、25年間です。四半世紀にもわたる期間、この国のある意味、民族感情、宗教意識といっていいと思うそれを、外国にかき回され続け、きちんとその主張をしようともしない。もううんざりします。


 「政教分離に反する」とかいう声がありますね。靖国神社に総理や閣僚が参拝する事は、それに違反しているというのです。そういうことを言い募る人々は、この国の1兆円を超す税金が、キリスト教や、仏教を教育の柱とする大学などへ私学助成金として支払われていることになぜ反対しないのでしょうか?教育の根本に宗教があることは、世界中の常識ですね。新渡戸稲造が「武士道」を著したのも、「あなたの国の教育に宗教教育はないのか?それなら、人間教育をどうやって行うのだ?」と外国人に尋ねられ、「日本の人間教育は武士道によってなされると発見してからだと、冒頭に書いてあります。


 国際基督教大学は名前のとおりキリスト教をその建学の精神に置いています。専修大学は「専修念仏」という浄土宗の言葉でしょう。教育の根本に、宗教があるのは極めて自然なことだと思いますが、政教分離と声高に叫ぶ人々は、そういう教育機関への公費支出を反対しないのは論理矛盾ですね。支離滅裂・・・。


 僕は、総理大臣が参拝するのは当然だと思っていますし、その事について他国にとやかく言われる筋合いのものではないと思っています。ごちゃごちゃ言われるその原因が東京裁判でのA級被告云々だそうですが、その東京裁判自体が、いかにでたらめで、不公正で、不正義なものなのか、次回の3と1の会で皆さんに紹介して共に考えて頂きたいと思っています。


 次回第30回は8月26日です。

2010年7月31日土曜日

65年前の終戦記念日を思う その6

1990年代初頭の映画「メンフィスベル」です。


『無傷の"メンフィス・ベル"で最後の任務に飛び立つ、若き戦士たちの運命は…!』

1943年。イギリスの米軍基地は、ナチス・ドイツへのB-17による危険な白昼攻撃を繰り返していた。そんな中、その白昼攻撃を最後の任務として迎えることになった10人の若きクルーたちがいた。彼らが乗り込むのは、24回の出撃で唯一無傷を誇る戦闘機"メンフィス・ベル"。それでも撃墜の恐怖は消えるものではない…。それぞれの夢と不安を胸に、若者たちは、いまドイツ本土の激戦区へ向けて飛び立つ!



以上、アマゾンより

B17というのは、米軍の爆撃機です。日本を爆撃したのはこれではなくてB29です。「戦闘機 メンフィス・ベル」と出てきますが、戦闘機に10人乗りこめるわけなく、これは「爆撃機」の間違いです。この映画、なかなか面白かったので、皆さんにもお勧めします。

 このビデオを自宅で英国の友人と観た事があります。私としては、対ドイツ戦なので日本人の僕としても、英国の彼としても気まずい思いはしなくていいだろうなという思いがありました。劇中、主人公であるクルーの最後の出撃の前日、基地内で地元の女性も参加するダンスパーティがあるのです。アメリカの戦争映画ではよく出てくるシーンですね。

「おまえの国は戦争中にダンスして、娯楽があったんだなぁ」

と一人ごちた僕に、彼は「No dance party?」と目を丸くして僕に聞き返したのが印象的でした。つまり、彼は第二次大戦中の日本と、現在の日本のギャップを知るわけもないし、当時の日本でも、自分等の国と同じように戦争中とはいえ、休息も娯楽もあったはずと思ったわけです。

「ダンスどころか、食べるものも飲む水をなかったところが多かった。多くは死ぬまで帰れなかった」

「!!!」(外人特有の大きなジェスチャー付き)

と、こんなやりとりでした。僕は彼相手に熱く語ろうとは思っていませんでしたし、ただそんな状況でも戦ったかつての日本人を立派に思っただけです。


「撃つに弾なく、食うに米なく、飲むに水なし」

日本軍の戦線で日常的に見られた状況を表すとこうなります。
「父よあなたは強かった」という軍歌があります。

「敵の屍とともに寝て、泥水すすり草を食み」
という歌詞が出てきます。これを米国人に教えたところ、「これは前線の悲惨な状況を訴える反戦歌か?」という答えが返って来たと、阿川弘之の本に出ていました。

僕はよく思います。かつてのこの国の人間が受け入れなければならなかった運命の下、果たしてこの自分に父祖と同じような振る舞いができるのだろうかと・・・。極限の状態の中でリーダーシップを発揮できるのだろうか、任務を果たす事ができるのだろうかと・・・。


2010年7月30日金曜日

心の食物

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりにも遠し
せめては新しき背広をきて
きままる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みずいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめの
うら若草のもえいづる心まかせに。


萩原朔太郎がこれを詠んだ大正時代には、一般庶民の海外渡航などは思いもよらぬことでした。今とは大違いですね。今は世界が狭くなりました。ただ、それがどれだけ僕らの人生を豊かにしたのかについては、疑問が残ります。「憧憬」は手に入れた刹那に「憧憬」ではなくなってしまうからです。心の中でずっと温めて続けている状態の方が幸せというような、ある種のつつしみみたいなものを一切、なくしてしまっていますからね、現在は。


若い時には旅をしろ、だとかよく言いますね。見聞を広めろとか・・・。僕はその言葉に否定的です。何の知識も、あこがれもなく、例えば海外へ旅へ出たって、心の中に残る事はそう多くはないと思うからです。逆に、常に自らを省みて沈思して心の中に「なにものか」を持っている人ならば、普段目にする何気ない日常の中に、海外で見る景色の素晴らしさ以上のものをみつける事ができるだろうと思うからです。




「われわれの人生に対する読書の意義は、一口で行ったら結局、『心の食物』という言葉が最もよく当たると思うのです」


「『心の食物』は、必ずしも読書に限られるわけではありません。いやしくもそれが、わが心を養い太らせてくれるものであれば、人生の色々な経験は、すべてこれ心の食物と言ってよいわけです。したがって、その意味からは、人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分と言えましょう。だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいとも言えましょう」


「ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らなねば、かえって人々を損なうようなものです。同様に人生の深刻切実な経験といえども、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなりましょう」


これは西田幾太郎の弟子であった森信三が「修身」の講義で述べた言葉です。


そういえば、カントの言葉にも「知識は経験とともに始まるが、思推思考がなければ盲目となる」がありますし、
論語の「学びて思わざれば即ちくらし 思いて学ばざれば即ち殆し」がありますが、ほぼ同様なことを言っていますね。


僕の読書の目的は、「この世の絶対の真実を知りたいがため」といえるかも知れません。そんなものはありはしないのかも知れませんが、それを究める途上に読書があるのかなと・・・。すなわち僕にとっては「読書」は修行の一つです。



2010年7月29日木曜日

「死刑」「人権」等々

 現法務大臣が、就任後初めて死刑を執行したことがニュースになっています。
その千葉恵子なる女史は、先の参院選で落選したまま大臣にとどまっており、その事について批判が多く出ています。閣僚は議員でなくても務めることができるので、それについてとやかく言うつもりはありませんが、彼女は名うての「死刑廃止論者」らしいですね。この時期に死刑を執行したことについては、痛くもない腹をさくぐられても致し方のないことだと思います。


 さて、新聞によれば世論調査で国民の85%は「死刑」に賛成しているそうですね。世の中の論調は何でもかんでも「民意民意」と騒ぎ立てていますが、それならばこの「民意」の結果を尊重すべきでしょう。しかしながら、僅か15%に過ぎない小数意見をなぜクローズアップするのか、僕にはよくわかりません。しかも、死刑廃止を叫ぶ人々は「人権運動家」とか言われています。「人権」って何だ?


 ニュースでもアムネスティの日本支部長とかいう女性が、「人間の命に関わる重要な決断」云々と、死刑の執行に関して落胆したとか言っていましたが、その支部長は罪なく殺された被害者の命に関しては、どう考えているのでしょうか?同じセリフを被害者の遺族に、面と向かって言えるのでしょうか?その彼女だけでなく、死刑廃止論者は必ず「国家が命を奪う」ということに対して、一様に疑義の念を差しはさんでいるようです。


 たとえ自分の家族が殺されても、その加害者を許すという、寛容で愛に満ちた人もいるにはいるでしょう。僕もそういう人を尊敬するにやぶさかではありませんが、それを万人に強制しようとするのは大きな間違いでしょう。仮に、死刑廃止論者が被害者の遺族に「死刑よりももっと辛い刑を与えるために」と、現行の「無期懲役」ではなく、「終身刑」を課そうと説得するのなら、僕もわかるのですよ。僕ならその説得には耳を貸しませんがね。でも、そうではないですよね、必ず命を国家が奪うのはよくないというのが、彼らの主張ですから。もちろん、無実の罪で死刑になる可能性は0にはなりません。裁判の錯誤は必ずあります。しかし、そうはいっても裁判というものを信用せざるを得ないのが、この社会に生きる人間の定め、悲しいかもしれませんが宿命です。近代というものは、個人から復讐権を取り上げ、国家にそれを与えました。世にはびこる「人権論者」は、その復讐権は「人権」の中には含まれないという理解なのでしょうか。僕には理解できません。


 毎週欠かさず見ていいた「クリミナルマインド」というアメリカのテレビドラマがあります。先日シーズン4の最終回でした。
89人ものホームレスやジャンキーをさらってきて、知的障害である自分の弟を利用して人体実験していた四肢麻痺で寝たきりの兄が、こう言うのです。「たとえ、陪審員が僕を有罪と認めて、僕が罪を負ったとして今の僕の境遇以上の罪があるのか?」と。米国は衆によっては死刑がありません。結局、その兄は妹を殺された遺族に撃ち殺されてしまいます。後味の悪いエンディングで、罪と罰についての根元的な問いを発している内容でした。


 
 根元的な内容といえば、この本です。




かなり売れていますね。この社会の様々な矛盾や対立をあげています。まだ全部読んでいませんが、これまでのところ、非常に面白い本ですよ。いつかこれを題材に議論できたらいいとは思いますね。


 この世の中に解ける矛盾や対立は非常に少ないのだなとわかります。

2010年7月23日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その5

 昭和20年8月に日本国軍隊が降伏をしなかったら、連合軍は秋に南九州へ上陸するオリンピック作戦、翌年の3月には関東地方に上陸するコロネット作戦を遂行する予定でした。後者の作戦においては「史上最大の作戦」として名高いノルマンディ上陸作戦をはるかに上回る規模の上陸作戦となる予定でした。


 一方それを迎え撃つ日本軍は、15歳から65歳までの成年男子を根こそぎ動員し、2800万人を組織化して最後の戦いを行う算段でした。全員に行きわたる兵器もあるわけでなく、もうほとんど自殺攻撃だけが残された戦い方でした。まさに一億総特攻です。これは戦術とか、作戦の名に値しませんね。もはや精神の戦い、いわば「心法」です。


 幸いなことに、そのような事態は避けられたわけですが、連合国は、九州への上陸作戦だけで約25万人の戦死者数を予想していました。特に、沖縄での軍民一体となった戦いに衝撃を受け、本土へ上陸したことを考えれば、そのくらいの戦死者数を予想し、かつ恐れたのです。


 日本が米国と戦ったあの戦争をよく言う人はまずいません。いわく、「無謀な戦争」「勝ち目のない戦争」「無計画な戦争」・・・。しかし、僕はこう思います。「今に生きる『合理的』な日本人は、あのようなことを二度としないと断言できるのか」と。
対米英戦は、技術水準、物量の差からみて到底勝算などないことは、皆わかっていました。論理的に結論を求めれば「敗戦」となることは自明の理でした。何でもかんでも合理的、論理的に考えようとするなら、当時の日本人は皆狂っていたことになります。


 ただ、こうも言えるのではないでしょうか。


「個人の人生において、合理的、論理的な説明が不可能なことを為す場合もあるのだから、国家や民族においても、仮に負けるとわかっている戦いに、あえて身を投じなければならないこともある」


 僕は、日米の戦いは太平洋を挟んで向かい合ったこの両国の宿命であったと思っています。




さて、「東京裁判」正しくは「極東軍事裁判」について、皆さんがどれほど知っているのかはわかりません。毎年8月15日になれば靖国参拝で「A級戦犯」云々と、マスコミをにぎわしますが、あの裁判の「振り」をした復讐劇の茶番は、今でもこの国の矜持を汚すことに一役買っているようにも思えます。


次回の3と1は、その「東京裁判」について皆さんの理解を深めてもらうために、僕が講師を勤めようと思っています。第30回の開催。8月26日に行います。場所は未定です。



2010年7月22日木曜日

65年前の終戦記念日を思う その4

 今日は終戦にまつわる秘話を紹介します。


愛媛県松山市といえば、「坂の上の雲」の秋山兄弟、正岡子規が生れ、夏目漱石「坊っちゃん」の舞台となったことで知られていますが、戦争末期の昭和19年末に「343海軍航空隊」という部隊が創設され、日本爆撃に大挙飛来する米軍機に日本海軍航空部隊最後の大戦果を挙げたことは知られていません。その部隊を創設したのは源田実大佐で、真珠湾攻撃時の航空参謀であり、航空の専門家として海軍部内にあって大きな発言力を持った人間でした。源田大佐は、日本の上空における米空軍の跳梁跋扈を何としても阻止すべく、当時の新鋭機「紫電改」で戦闘機部隊をつくり、その搭乗員も南太平洋に広く散らばっていた、各航空隊のエースを彼の政治力によって松山に集めるということやってのけます。


この頃、日本海軍の「零戦」は性能の面でもはや米軍機に太刀打ちできず、しかも搭乗員の技量も低下する一方でした。当時の日本の戦闘機は陸海軍含め1000馬力のエンジンでしかなく、一方の米国は2000馬力のエンジンを積んだものでした。新鋭機「紫電改」は海軍戦闘機の中で唯一2000馬力のエンジンを積み、しかも空戦性能を飛躍的に高める「空戦フラップ」という新技術が織り込まれた、まさに起死回生の期待を担う戦闘機でした。


源田大佐は、優秀な搭乗員、優秀な戦闘機を集めただけではなく、戦闘方法もこれまでとガラリと変えて、名人技に頼ることなく、常に編隊という組織で戦うことを徹底させました。空中での組織戦を支える高性能の無線機も完璧に揃えさせました。信じられないことでしょうが、それまでの海軍の航空機に装備されている無線機は、非常に性能が悪かったため、いざ空中にあがると手信号による意思疎通しかできなかったのです。


源田大佐のこの目論みは、大成功を収めます。爆撃機B29には目もくれず、ただその護衛戦闘機だけに狙いを付ける作戦は、紫電改の高性能、搭乗員技量の卓越さ、編隊戦という新作戦で、昭和20年3月の初陣で米国戦闘機50機を超える撃墜を成し遂げます。


しかしながら、たび重なる戦闘により優秀な搭乗員も次々と戦死し、かつ機体の補充もおいつかず、部隊の戦闘力を維持できずに最後は終戦を迎えるのです。


ちなみに、現在の旅客機は高度約9000mを飛行しますが、B29は高度約1万mを飛行してました。日本の航空機は、その高さで自由に戦闘する事ができず、しかも、航空機を落とすための高射砲もその高さまで届きませんでした。唯一その高さまで射程距離のある高射砲は、僅かに2門あるだけでした。


さて終戦後。源田大佐は、海軍上層部から秘密命令を受けます。それが「皇統を護持せよ」というものです。つまり天皇家の血筋を護れということです。連合国が天皇家の将来についてどのようにするか予断をゆるさかなった時、その血を継ぐものを護り、かくまうことを命じられたのです。


そのいつ解除されるかもわからない秘密命令は、8月19日になって部隊員に告げられ、23名がその任務につきます。終戦直後の具体的行動は、どこに皇統をかくまうか、その場所を探すことでした。数名ずつがグループになり、各地を歩いて回ったのです。


幸運なことに、その秘密命令はその目的を果たさずに済む事になります。その命令の解除式は戦後36年目の昭和56年に行われました。中には、いつ命令の発動が来ても良いように、ずっとその準備を怠らなかった人間もいたそうです。源田大佐は、その後航空自衛隊の制服組トップである航空幕僚長を務めたあと参議院議員となります。


この秘話をどうみるか、現在の視点からみればある種の迷夢かも知れません。しかし、「歴史」というものはこうした無意味ともいえるものにかける人間の情熱の集積が、その流れを作っていくものなのかも知れません。僕はそう思っています。

2010年7月21日水曜日

経済道徳合一説

 不定期ですが、日経朝刊に「200年企業」という記事の連載があります。あいまいな知識ですが、日本は創業100~150年超の企業が世界一多いとか・・・。本日(20日)のそれの冒頭は次のように始まっています。


『長寿企業の経営哲学や家訓の共通項を調べると、勤勉や創意工夫、倹約と並んで社会貢献・地域貢献を重視していることがわかる』


これを読んで思い出したのが渋沢栄一です。日本における「近代資本主義の父」ともよばれ、幾多の企業を輩出してきた渋沢栄一は、「経済道徳合一説」というものを唱えました。「論語と算盤」という本の中に出ています。
彼は、富を独占するのではなく、国を豊かにするために富を共有すべしと広く社会に還元することを説いたわけです。「226」執筆時にいろいろ調べましたが、かつてのこの国は超格差社会でした。貧しい者はとことん貧乏で、富める者は考えられないくらいに大金持ちでした。ただ、その頃の大金持ちの中で少なくない者は、優秀だが貧乏で進学できないこどもに学費を援助してやる、または広く美術工芸品等を集めて、今に残る美術館を作ったりと、富める者の果たすべき義務を果たしていました。米国では、今でも個人の名を冠した民間の奨学金制度が多く、貧しい家庭に育つ子供の学問への道は篤志家によって広く開かれています。


翻ってこの国はどうでしょう?かつてと違い、大金持ちが生まれにくい社会にはなっていますが、「篤志家」なる言葉は死語になりつつあるような気がします。

2010年7月20日火曜日

市場対国家





梅雨明けしたとたんに猛暑です。


この本、1999年に読んだ本です。既に11年前ですが、初めて読み返しました。名著です。買った当初、自民党総裁選に小渕、梶山、小泉の3人が立候補しました。田中真紀子が「凡人、軍人、変人」と彼ら3人を言い表した総裁選です。僕は、田中真紀子が大嫌いですが、彼女の言葉のセンスには舌を巻きます・・・。
さて、この時の総裁選に対し、新聞には「市場は誰を認めるか」というような記事が出ていたのを明確に覚えています。「市場」が総理を信任するなど、これまでの総裁選では何の考慮もなかったからです。で、買って読んだのがこの本です。
今は文庫にもなっているので、是非読んでください。非常に面白い本です。


印象的だったのが、第二次大戦後の英国の状況です。英国は、1954年まで食料の配給制度があり、キャンディですら1953年まで配給制度の対象になっていたというのです。これには驚きました。戦勝国ですからね、英国は・・・・。


大日本帝国の戦争目的の一つに「大東亜共栄圏」の建設がありました。これは、その基本思想はかつてのEC(ヨーロッパ共同体)と同じです。そのためにアジアから欧米諸国の植民地を一掃したわけです(もちろん、帝国にとっては資源目当てでした)。帝国は敗戦の憂き目に遭いますが、帝国が戦争をしたおかげで、植民地が独立できたことも事実です。そして、その結果が英国の没落・・・。果たして真の勝者は?と考えてしまいます。


市場は、競争によって成り立ちます。小泉改革と呼ばれたかつての規制緩和の大合唱は未だ記憶に新しいですが、竹中平蔵とともにその旗振り役を務めた中谷巌は、その大合唱の果ての日本の姿に、「自分は間違っていた」と反省の意を表明し、以下の本を著しました。




センセーショナルな題名ですが、資本主義を市場万能主義と読み変えればいいのではないでしょうか。ちなみにこの本は読んでませんが、彼の反省の意はいろいろな雑誌で取り上げられていたので、大方内容は推測できます。


計画経済がうまくいくわけがないのは、最早周知の事実。あのソビエトの壮大な実験の失敗は皆がわかっているはずですし、最大の共産主義国家中国の経済的発展は、その教義に従ったわけではなく、本来不倶戴天の敵であるはずの市場経済によるものです。資本主義=市場経済が自壊したのではなく、それを万能の如く崇めたのが間違いだったです。


経済の語源は「経世済民」。この言葉をもう一度考えるべきでしょうね。


僕は、モラルなくして経済なしと考えています。モラル=道徳がその根幹にあってしかるべきだと思います。これは市場での敗者のためにセーフティネットを整備するというテクニックとは別次元の問題だと思います。残念ながら、それを筋道立てて説明する見識は僕には未だありませんが・・・。漠然とそんな風に思っているのです。


管政権は、成長分野に集中的に投資していくと、自らの政権構想で公言してますが、その「成長分野」はどこにあるのか、官僚や政治家ならそれがわかるとでも思っているのでしょうか?僕にはどうもひっかかる言葉づかいであります。





2010年7月16日金曜日

65年前の終戦記念日を思う その3

戦争中、海軍の中堅幕僚だった人々が昭和56年から始めた、「海軍反省会」と題した討議内容をまとめたのが、この本です。数年に渡って行われたらしいのですが、この本にまとめられているのはほんの一部です。未曽有の敗戦となったあの戦争についての海軍側からみた反省録となっています。「なぜ陸軍に引っ張り回されたのか」「なぜ硬直した人事制度しか採りえなかったのか」「なぜ難局を担う資質のある人間がトップにならなかったのか」等々・・・。電子兵器の遅れ、物量の差、開戦ぜざるをえなかった原因など、多くの事柄について反省をしていますが、突き詰めれば、「人」の問題に帰するという結論になっています。人事制度、教育を含めてです。

 ただ、ひとつ「なるほどなぁ」と目を開かされた意見がありました。少し説明を要します。

 日露戦争後、日本海軍は米国を仮想敵国とします。これは地政学上からいって当然の帰結でしょう。急激に海軍国として台頭してきた日本と、ハワイ王国を謀略によって併合までした米国とは、いずれ太平洋の覇権をかけて戦わざるを得ないとみたからです。

「来るべき日米戦をいかに戦うか」についてまとめられたのが「邀撃作戦」というもの。この作戦を根幹に海軍の軍備は進められていくことになります。これは、要するに太平洋を西上してくる米国太平洋艦隊を、待ち伏せて一気に艦隊決戦に持ち込み、日本海海戦の再現を目指すものでした。ただ、当然海軍力の差は歴然としてあるので、いきなり正面からぶつかったのでは勝ち目はない。そこで、まずは潜水艦によって米国太平洋艦隊を少しづつ沈め、さらには駆逐艦による夜襲により、相手の兵力をそぎつつ、彼我の兵力を五分五分として、最後の戦艦同士の艦隊決戦に持ち込み、勝利を得るというものです。これが海軍の対米国戦の根幹にあった作戦です。

ところが、いざ日米開戦すると、ご存じのとおり日本海軍はその劈頭に航空機によって米国の太平洋艦隊の基地であったハワイを急襲します。「邀撃=まちぶせ」から「先制攻撃」へと変更したわけです。米国は、この攻撃を受けたことによって、戦術を一変させます。多数の空母を集中的に運用し、航空機による艦船攻撃に変更するのです。日本から学んだことです。ところが、日本海軍は真珠湾攻撃でみせた戦い方に主軸を置くには至りませんでした。艦隊決戦をどうしても捨てきれなかったからです。

「反省録」で出てきた意見は、「邀撃作戦の方がよかったのではないか」というものでした。空母運用による作戦を否定してはいませんが、作戦の根幹を変えることはなかったではないかという意見でした。「いかに戦うか」について日本海軍は最後ま中途半端でした。米国海軍は一気に変えました。見事なほどに。

後世からみれば、あれ(真珠湾攻撃)で海戦の主役は航空機に移ったということは簡単ですが、当時はまだ五分五分だったのでしょう。米国はリスクを冒して航空機に主軸を移し、日本海軍はリスクを冒さずに中途半端であった。しかも、それまで積み上げてきた「邀撃作戦」への夢断ち難し・・・・といったところでしょうか。僕は、反省の中にそれが出てきた事に、例の「組織の不条理」でみた「合理的なるが故に不条理」という事を思い描く一方で、それは後世だから言えることであって、当時の情勢からみれば、その是非はわからなかったはずだと共感した次第です。


真珠湾攻撃の発案者は今でも著名な山本五十六連合艦隊司令長官です。海軍省、海軍軍令部ともにその作戦については猛反対をします。これまでの「邀撃作戦」とは相容れないものですし、リスクが大きすぎるとみたのです。山本五十六は「この作戦を許可しないならば職を辞す」といい、半ば恫喝して最終的にこの作戦許可を得るのです。時の軍令部総長(海軍の作戦の総責任者)永野修身は、「山本があれだけいうのだから好きなようにやらせてやれ」と・・・、こういったと言われています。成功したからよかったものの、失敗していたら大変なことでした。

同じセリフでその上司が判断して大失敗したのが、昭和19年3月に始まった「インパール作戦」でした。言ったのはビルマ方面軍のトップ川辺正三陸軍中将、言わせたのは配下の第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将でした。補給をまったく考慮しない無謀極まりない作戦で、当初からそれに反対する人が多くいたのですが、東条首相の意向もあり、最終的に許可されてしまいます。孤島ではないにもかかわらず、約9万人の兵力を投入して最終帰還者は1万人前後、戦病死4万人のうちそのほとんどが餓死と言われています。

牟田口中将は、戦後も「あれは部下が無能だったから失敗した」と言い続け、自身の葬儀の際にも会葬者に自己弁護を綴った紙を配布させたそうです。

20年近く前だと思いますが、靖国神社でその作戦が行われたビルマから持ちかえられた銃や、鉄兜、飯合が展示されているケースの前で、それを見ていた僕に話しかけてきた老人がいました。「私もビルマにいた」と・・・。その老兵は怨みつらみを一切言わず、ただ「国がこうまでして集めて来てくれてありがたい」と言っていました。僕はびっくりしてただ「御苦労さまでした」とだけ言うのが精いっぱいでした。その老兵もおそらく今は墓の下、しかし今でもあの老人の姿が目に焼き付いています。

アルピニストの野口健が、日本軍の遺骨収集を熱心に進めているらしいですね。いろいろな山のゴミ拾いはマスコミに取り上げられますが、そういった彼の活動は一切マスコミに登場する事がないのは何故なんでしょう・・・。

出るのはため息ばかりです・・・。



2010年7月14日水曜日

65年前の終戦記念日を思う その2

 敗戦後、海外の領土と占領地から引揚げてきた日本人の総数を想像できますか?
陸海軍人311万人、民間人318万人で総計629万人と推定されています。最も多いのは満州からの100万人で、以下中国本土、朝鮮半島、台湾と続き8割以上がいわゆる「大東亜共栄圏」からの引揚げでした。
現在の海外在留邦人数は110万人でしか過ぎないので、いかにかつての大日本帝国の海外進出が壮大な規模であったか想像できると思います。
 
 人口約4000万人で明治を出発したこの国は、飛躍的な経済発展を遂げていくのですが、所詮は農業国であり、かつ無資源国、この狭小な国土のみでは膨張する人口を養っていく事はできなかったのです。したがって、戦前は「移民」として海外へ渉人が非常に多かったわけです。そしてそれが国策でもありました。アメリカをはじめ、ブラジルやハワイなど、今は三世、四世なのでしょうが、当時の日本の国策を今でも現代の僕らに偲ばせます。貧しい国から豊かな国への人の流れは今でもありますね。当時はそれがもっと切実だったのだと思います。


 さて、「強制連行」とか言う言葉、かつてのこの国の悪鬼の如くの行いが、お隣の韓国、北朝鮮から糾弾され続けています。今もこの国に暮らす多くの在日韓国人はもとをただせば、それによってこの国に住まざるを得なかった被害者、犠牲者だと・・・。ちなみにこの「強制連行」という言葉は反日左翼の日本の学者だかジャーナリストがつくった言葉です。


 今日は、このあたりの歴史の事実をご紹介しましょう。


 いわゆる「強制連行」なる言葉の意味する、本人の意思に反して強制的に朝鮮半島から日本に連れてくることを出来るようにしたのは昭和19年2月からの「徴用」というものです。これには確かに強制力がありました。


 朝鮮半島での戦時動員が始まったのが昭和14年9月からです。最初は「自由募集」から始まりました。日本国内の炭鉱、工場での労働力確保ために始まりました。この14年時点で日本在住の朝鮮人は約80万人です。もちろん、すべてが自由渡航です。これは現在の在日朝鮮人の数よりも多い数です。


 昭和14年から16年の2年間で、朝鮮半島から日本への渡航者は107万人。このうち、前記「自由募集」で渡航した者は約15万人、それ以外の92万人が自由渡航者です。どちらも「好き」で渡航した人間です。


 昭和17年2月には、「自由募集」形式では思うように労働力が確保できないので「斡旋」という方式を採るようになります。これは、日本国内の事業主が朝鮮総督府に対して、必要とする人員の確保を斡旋を依頼するものです。強制力はありません。そして、昭和19年2月に思うように集まらない労働力を強制的に集める事ができる「徴用」を開始するのです。


 しかしながら、昭和17年1月から昭和20年5月までの約3年間の朝鮮半島からの渡航者は137万人。このうちの52万人が「斡旋」「徴用」による、国策が関与した渡航者でしたが、残りの85万人が自由渡航者です。


 お分かりのとおり、朝鮮半島から日本に渡航した人々は、その圧倒的多数が「自由渡航者」なのです。その大多数が「強制的に連れてこられた」というのは、事実を無視した虚像です。


 また、これは非常に重要な事ですが、昭和26年の日韓国交化正常化交渉。反日政策を精力的に推し進めていた李承晩政権時代ですが、ここで取り上げられたのは「韓国人被徴用者に対しての未収金」問題だけです。つまり、未払い給与を払えということだけです。日本が行ったとされる、人さらい同然の「強制連行」など、一言も触れられていません。


 この国には、なぜか自らの国を貶めることを生甲斐としている人間が多くいます。かつて世を賑わした「従軍慰安婦」問題なるものもそうですね。火を付けたのは日本人ですから。この国を断罪するために韓国まで行って、裁判の原告をさがして来るなど、常軌を逸した行動だと思いますが・・・。そういった人々は、かつての大日本帝国は悪魔の国だったと、歴史を捏造してまで、今のこの国に「反省しろ」「謝罪しろ」「金払え」と、声高に叫びます。仮にそれが主張するような「セックススレイブ」であったなら、大きな人間愛の発露で、かつて虐げられた人々に、救いの手を差し伸べたいのなら、先ずは自分の全財産を投げ打って件の人々にお金を与えたらいいじゃないですか。何故、そういうこともせずに、人(国)に「謝罪しろ」「反省しろ」などと言えるのか?僕には品性お下劣な見本としか思えません。さらに嫌になることは、テレビ、新聞等のマスコミもそういう人間の尻馬に乗っかっているということですね。政治家ですらそうです。


 僕は、この国の政治家の中にも、特に民主党の1年生議員に多いと思いますけど、中国、台湾、日本の三カ国の近代100年の歴史を知っている人は少ないのではないかと想像し、暗澹たる気持ちになります。台湾とは正式に国交が無い事すら知らないのではないか・・・。出るのはため息ばかりです。
 

2010年7月13日火曜日

65年前の終戦記念日を思う その1

 数年前にWOWOWでアメリカのテレビドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」という、第二次大戦の欧州戦線での米国部隊を主人公にした物語を放映してました。テレビドラマとはいえ、製作総指揮にスティーブン・スピルバーグ、トム・ハンクスが名を連ね、総製作費数百億という大作です。田村さん、ご存知ですよね?
 さて、今度はそのメンバーによる米国海兵隊を主人公とした「ザ・パシフィック」が同じくWOWOWで放映されます。今からとても楽しみです。


 さて4年程前、「硫黄島からの手紙」という映画が好評でしたね。今日は、その周辺の逸話を紹介します。


 1949年の元旦に、硫黄島で二人の日本兵が投降した。彼等は戦友達の玉砕も日本の敗戦も知らず、4年間昼間は地下壕に身を潜め、夜間に米軍倉庫から食料、衣服を盗み出し生きていたのだ。投降した時の2人は、長い地下壕生活で顔色は冴えなかったが、ふっくらと太っていたという。 

 その内の1人、山蔭光福元海軍二等兵曹は内地に帰還した後、警察予備隊の発足に際して志願するも、持病のヘルニアが原因で不合格となってしまう。恐らく失意の日々を送っていたであろうその人に、「硫黄島での4年間の思い出を書いてはどうか」と彼等の生還と、そのインタビュー記事を本国に送った米国人ジャーナリストが救いの手を差し伸べた。山蔭応えて曰く「四年間島で日記をつけていました。没収されるのをおそれて土に埋めて隠してきたのです。あれを掘り出して参考にすれば、きっと正確な記事が書けると思います。取りに行かせてもらえませんか。」 
NBC極東支局長であったその米国人ジャーナリストは、早速彼の硫黄島渡航を滞在1泊という条件付ながら実現する。1951年5月7日、彼を乗せた飛行機は硫黄島へ向けて飛び立った。山蔭は非常に嬉しそうだったと言う。 

 しかしながら、彼は日記を見つけられなかった。火山地帯のため、地形は大きく変動しており、かつての生活場所の変貌は想像以上だったのだ。 

 翌日の朝、飛行機の出発時刻を間近に控えた山蔭ら(エスコートの米軍人含む)は写真撮影のために硫黄島を象徴する摺鉢山へ向かう。山頂に着いた山蔭は感慨深げに海を見渡していた。出発時刻が迫り、彼は車に向かって歩き出した。 
だが、車まであと数歩というところに戻った彼は、突然踵を返して走り出し、あっという間に摺鉢山の断崖から太平洋めがけて飛び込んだのである。 

「太平洋へ死の跳躍」 

 彼の死を伝えた毎日新聞の見出しにはこう記された。それを間近に目撃したエスコート役の米軍人は次のように記している。 
「・・・山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メートル離れた地点であった。山蔭君は突然両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら狭い崖の突出部から身を躍らせた・・・」 

 件のジャーナリストはこう言っている。
 
「戦友の死霊に招き寄せられるように太平洋めがけてとびこみ自殺を遂げた」 

 山蔭は、硫黄島へ渡る直前岩手の実家へ帰郷し、「硫黄島で咲かせるのだ」といて鳳仙花の種を鞄にぎっしり詰めていったという。1925年生まれの彼は26年間の人生を、その最も過酷で地獄のようだった硫黄島で自ら終らせた。地下壕生活から生還して僅か2年4ヶ月余の人生だった。 

 彼を知る誰もが、そして死の直前まで一緒にいた米軍人でさえも 
彼がよもやそんな事を企んでいたとは思いもしなかったという。 
快活で喧嘩も強く、また几帳面な性格でもあったのだろう、彼は海兵団にいた頃から日記は欠かさずつけていて、1944年9月に硫黄島に立つ前にそれを実家に送ってもいる。 

 彼、山蔭光福を主人公とした小説「硫黄島」(著者菊村到)は1957年上期の芥川章受賞作である。 

 本日の出所「硫黄島いまだ玉砕せず/上坂冬子/文芸春秋」 
(この本は同島の遺骨収集に命をかけた元海軍大佐和智恒蔵が主人公)


 先日テレビで知りましたが、1944年7月のサイパン島の日本軍組織的戦闘が終了してからもゲリラ戦を展開し続け、日本軍の救援を信じ続けて戦い続けた陸軍部隊を主人公とした日本映画が製作されているようですね。唐沢寿明がその部隊長を演じるそうです。この部隊が日本の降伏を知り、正式に米軍に投降したのが昭和20年12月の事でした。

2010年7月12日月曜日

この結果を何とみるか・・・

 予想通り、与党民主党は大敗しましたね。管総理は、大敗の原因を自らが発言した消費税率の問題について、あまりに唐突にすぎたのが原因と一番最初に挙げてました。ところが僕はそうはみません。
大敗の一番の原因は、これまでの民主党政権に対しての評価だとみています。ヤフーの投票でも、それが最も多い大敗の原因でした。消費税云々とは違います。それをしっかりと認識してもらいたいと思います。やはり、前党首鳩山という人間のあまりの定見のなさ、しかもそれを支える人間が民主党内にいなかったことが、予想以上の失望を多くの人に与えたのではないかとみています。力もないくせに個人プレーに走った挙げ句があの迷走でした。外務大臣、防衛大臣、沖縄担当大臣は一体何をしていたのか?特に沖縄担当大臣は前原で、彼は米国でそれを認めている程の安全保障の専門家ですよ。鳩山という個人が辞めることで責任をとるだけではすまないと僕は思います。

未明の管総理の会見で、「民主党の国家観は?」と問われた彼の回答は「国民主権、あくまでも国民の生活が第一だ」と述べてましたが、果たしてそれは「国家観」でしょうか?そしてもうひとつ、「国民主権」という場合の「国民」とは誰を指すのか?ということ。そういう言葉の定義をきっちりと語ることが政治家に求められることだと思うのですがどうでしょうか?

1年で3万人を超える自殺者があり、人口比でみれば先進国中で最悪の事態が争点にもならず、韓国の哨戒船を魚雷で沈めた北朝鮮の問題、軍拡路線をひた走る中国、GDPで日本を追い抜いてしまう中国の台頭に、この国はどう向かっていくのかというビジョンを説いた政党があったのか?まさしく国家観の欠如!かつて三島由紀夫がこんなことを言っていました。

「やがてこの国はなくなろう。そして東洋の一角に経済共同体が残るのみ」

もはや「経済共同体」として残るのも疑わしい事態になってきているではないですか。考えれば考えるほど嫌になります。

2010年7月8日木曜日

救国論

 今月号の文藝春秋の巻頭は藤原正彦の「一学究の救国論 日本国民に告ぐ」でかざられています。僕は、彼のベストセラー「国家の品格」を読んだ事がないので、初めて彼の論を読みました。彼の主張はこの国の混乱の原因は、GHQと日教組にあるとし、「東京裁判史観からの脱却」によって、「誇りある国家を取り戻せ」ということで、まさに我が意を得たりといったところでした。

「東京裁判史観」なるもの。いつか皆さんにご紹介したいと思いますが、このめちゃくちゃな政治劇を金科玉条のように崇め奉っているこの国の姿は奇怪であるといいようがないと思っています。昭和16年11月26日に米国から突き付けられた最後通牒、通称「ハルノート」をご存じでしょうか?それまでの十カ月に及ぶ交渉の経過を完全に無視して「日本は明治維新前の四島に戻れ」と言ったに等しいこの文章によって、日本国政府は絶望するのです。「最早戦争しかない」と・・・。米国との戦争を欲していた政府高官、陸海軍人の高官はほとんどいませんでした。もちろん、中には勇ましい言を吐く軍人もいましたが、それが軍の総意ではありませんでした。勝てる見込みがないのは皆わかっていたからです。

もう少し敷衍しますと、交渉の重要案件は日本が中国本土からの撤兵に応じるか否かでした。日本国は満州国さえのこれば、中国本土からの撤兵も止むなしとさえ考えていたのです。それで米国が禁輸を解消するなら・・・。当時の米国世論は8割が戦争反対、ルーズベルト大統領も「皆さんの息子を戦場には送りません」といって大統領になったのです。欧州ではドイツが全土を席捲するような破竹の快進撃を続けていた時です。既にフランスは降伏し、英国は虫の息、ソ連も危ないという中で、米国民はそれでも対岸の火事であると見なし、戦争に反対していたのです。議会も反対でした。それをなんとしても打破して、欧州戦線に介入したいのが米国政府の意向、そのための生贄になったのが日本でした。

東京裁判において、日本の弁護団の一員だった弁護士米国人ブレークニーは、法廷で次のようにいいます。

「このような通牒を突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも米国に対して銃を持って戦うだろう」

彼は、「広島、長崎に原爆を落とした国が『平和に対する罪』で被告を裁こうとしている」と米国にとって痛い事を平気で裁判で述べるなどの正義の人でした。

東京裁判の判決で有名なのはインドの判事として臨席したパール博士(法学)でしょうね。彼は「日本無罪論」をかなりのボリュームでまとめて判事団に提出しました。

後日談ですが、朝鮮戦争で中国本土の爆撃を具申して解任されたマッカーサーは、その直後の米国上院の公聴会において、かつての日本の戦争を「自存自衛の防衛戦争であったと思う」と証言してます。

安倍総理の時でしたか、インドの大統領が国会で演説しましたが、その内容が日本のマスコミによって発信されることはありませんでした。その演説内容は、かつての大東亜戦争の意義を掘り起こし、日本に感謝の意を表す内容だったのです。

市井の庶民が切歯扼腕しても致し方のないことで、そういうことが煩わしいので僕はあえて目を閉じ耳を塞いでいますが、
かつて三島由紀夫が「絶対の青空」と言った夏の青空が広がる季節になると、つらつらそういことを考えざるにはいられないのです。

2010年7月7日水曜日

理想のリーダー像

 かつての帝国陸海軍と戦火を交えた国の将官は、一様に次のように述懐してます。
「日本軍は現場指揮官は素晴らしいが、上級指揮官はくずのようだった」
この話をすると、経営コンサルタントとして多くの企業をみている人は、「今の日本の企業も同じです」と慨嘆します。

 今日は、ここから話を進めます。

これ、よく考えると極めて不思議な話だと思いませんか?現場指揮官を中隊長(200名規模)として考えてみましょう。
この中隊規模と言うのは、一人のリーダーが完全に統率できる人数の限界ではないかと私は思っていますが、最前線で戦う指揮官として、権限を行使して責任もとる覚悟が最も如実に表れる立場の指揮官であるといえるでしょう。このクラスの指揮官は、敵国からも賞賛されるくらいの立派なリーダーがたくさんいたのだと思います。さて、「くず」と称された上級指揮官は、当然のことながら、現場指揮官としての経験を積んでからその立場にたちます。しかし、なぜ上級指揮官になると「くず」呼ばわりされるほどになってしまうのでしょうか?

私見ですが、上級指揮官になると「権限を行使して責任をとる」というリーダーの必須条件がないがしろになってしまうからではないかと思っています。偉くなればなるほど「権限を行使しないで責任をとる」というリーダーになってしまうからだと思うのです。西南戦争時の西郷隆盛のごとく、「坂の上の雲」で描かれた大山巌のごとく、全てを部下に任せて好きなようにやらせ、最後の責任だけはとる、というような指揮官のタイプこそ理想だという風潮があったからではないかと思うのです。そして、今でもそれはこの国に残っているように思います。(今は責任もとらない人間が多いかも知れません)

現場指揮官ならば、判断は自らの意思だけで済みますが、上級指揮官になればなるほど多くの意思との調整をしなければなりません。そういった時でさえ、明確な判断を差し控えたからではないかと思うのが僕の推測です。判断できないのではなく、差し控えたのです。部下の好きなようにやらせ、最後の責任だけをとるのが指揮官だという妙な呪縛から逃れられなかったのです。

昭和3年に陸軍参謀本部が著した「統帥網領」。これは階級では中将以上、職責では軍司令官以上の高級指揮官の教科書ですが、その中に「軍隊指揮の消長は『指揮官の威徳』にかかる」と統率を定義しています。そして、その『威徳』を次のように定義しています。
①高邁な品性
②公明な資質
③堅確な意思
④卓越した識見
⑤非凡な洞察力
⑥無限の包容力
そして、「これを身につけ全軍が仰ぎ慕う将になれ。それが将に将たる所以であり、そこに統率の本義がある」と強調しています。以前、ここでも紹介した米国の陸軍士官学校の教育が「人格教育」がその根幹にあるのと、ほぼ同様であるといえるでしょう。(余談ですが、昨今流行のリーダー論やコーチング論には、この極めて重要なものが欠落しているように思えます)しかし、最後の「無限の包容力」は日本独自のものです。包容力を強調する「無限」という言葉は、要するに「高級指揮官はゴチャゴチャ言わずに部下の言う通りにやってくれ」というのが本音のように思います。参謀本部が参考にしたのが日露戦争時の満州軍総司令官大山巌の統率だったと言われています。大山巌こそ将軍の中の将軍、品性から包容力に至るまでのリーダーの要件を備え、特に包容力については抜群の存在である、とされたのです。このあたりのエピソードは「坂の上の雲」でも描かれ、広く人口に膾炙してますが、これが実は虚像であったという説もあります。しかし、その虚像をもとに、参謀本部が高級指揮官を補佐する参謀が働きやすいように勝手に理想の指揮官像を作り上げ、それを教科書にしてしまったのです・・。そして、今なおそれがこの国に蔓延している理想のリーダー像になっているような気がしています。

2010年7月3日土曜日

指揮官たるもの・・・

 1998年のフランスワールドカップ直前に、当時の岡田監督は遠征先の土壇場で「カズ」を外しました。これまで、どんなに調子が悪くても不動のフォワードとして、オフト、加茂時代の代表から定位置を約束されていた彼を外したのです。「自らの戦術に合わないから」と・・・。日本国中は大騒ぎしました。血も涙もない監督だと。これまでのカズの功績を考えたら、誰もが驚愕する事件でした。僕は今でも残念でなりません。

今回のワールドカップでも、岡田監督は不動の10番中村俊介をレギュラーから外しました。これもすごい決断だったと思います。どうも岡田監督は、そういう決断をせざるを得ない星の下にあるような人ですね。血も涙もある人間でしょうから、岡田監督の胸中は察するにあまりあります。

組織には機能体(ゲゼルシャフト:例えば企業、軍隊)と共同体(ゲマインシャフト:例えば家族、地域社会、趣味の会)があります。このふたつは構造も目的も違うわけですから、その運営にあたってはその違いを明確に認識する必要がありますが、日本人は、どうも情に弱く、機能体でありながら共同体に流れやすいように思います。この二つの組織の明確な違いを一つあげると、人材評価の尺度があります。機能体では「外的評価による能力と実績」、即ち目的への効率性とでも言えましょうか。一方の共同体は「内的評価による人格」、即ち情であり、波風立てるなといった世界です。これまで何度か述べてきた帝国陸海軍は、機能体でありながらその人事評価は共同体のそれでした。最後までブレイクスルーができませんでした。これも敗戦の原因の一つです。つまり、適材適所ができなかったのです。

さて、日本代表を二度に渡って率いた岡田監督は、明確にその人事評価を貫いた名指揮官といえるでしょう。言うまでもなく日本代表チームは機能体組織であるべきで、そうであるならばその人事原則が最優先されるべきです。カズを外したのも、岡田監督の考える勝つための戦術に彼が不要だったからで、今回中村俊介を外したのも同様の理由でしょう。これはすごい決断だったと思います。考えてほしいのは、今回ベスト16まで進めたからいいようなものの、1次リーグで敗退していたら、多くの非難を浴びたのは間違いありません。どちらにせよ、指揮官の相当な勇気と覚悟がいります。それを見事に成し遂げた岡田監督は本当に勇気ある指揮官だったと思います。

ところで、企業経営にせよ戦争にせよ、純粋な機能体組織こそがベストなのか?といえば、歴史はそうは教えていません。織田信長のつくりあげた軍事組織は、純粋な機能体組織でしたがその末路と、その後の歴史はどうだったか。次いで登場した豊臣秀吉は共同体組織から機能体組織への転換がうまくいかなったことを教えてくれています。

ここから先はまたいずれ。

話は変わりますが、岡田監督が帰国会見の席で「日本人の中に脈々と受け継がれているものをもって」戦ったといいましたが、果たしてそれは一体何を意味するのでしょうかね?惜しくも負けてしまったブラジルですが、代表監督ドゥンガはかつてジュビロ磐田でプレーしてましたが、当時からブラジル代表でもあった彼が、なぜサッカー後進国のJリーグでプレーすることを決断したかを問われて、「日本はサムライとカミカゼの国だから」と言ったことはご存じでしょうか?この国が教えもせず、忘れ去られている「神風特別攻撃隊」は、今なお海外で脈々と語り継がれているているのですよ。

2010年6月29日火曜日

懺悔

蒸し暑い日が続きますが、みなさん御機嫌いかがでしょうか?

今日はサッカーの話題です。
日本人の一人として、本日の日本代表の健闘と勝利を望みます!
何としても勝ってくれ!!!

かつて一度仕事を一緒にした造園コンサルタントの方に筋金入りのサッカーファンがいました。1978年のアルゼンチンでのワールドカップから、かかさず観戦に行っているとのこと。
彼は日本中のサッカー場を芝生にしたいとの夢をもち、造園コンサルタントの道に進んだそうです。
オフィスも国立競技場の近くにあるほどです。
午前中の打合せにもかかわらず、U17の国際大会をを朝方まで観ていたと、眠そうな目をこすっていたのを思い出します。

僕は、1990年代初めのオフト監督時代から日本代表を意識するようになりました。オフトが監督になるまでは、ワールドカップに日本が出場できるなど、大方の人は想像すらできなかったと思います。僕もそうでした。有名な話ですが、オフトが日本代表監督に就任する前、確か、マツダのサッカー部のコーチとして招かれた時、サッカー部メンバーの顔写真をみただけで、8割くらいのポジションを言い当てたそうです。日本代表(日本のサッカー)の躍進は彼によって始まったと思います。

1998年のフランスワールドカップ。臨時に監督となった岡田監督は、「1勝1敗1分けでグループリーグを突破する」と公言してました。戦う相手はクロアチア、アルゼンチン、ジャマイカでした。すぐに推測出来るとおり、ジャマイカに1勝、アルゼンチンに1敗、クロアチアに1分けと、星を読んだのでしょう。僕は、監督が言ってはいけない言葉だと思いましたね。選手のどこかに「一つは負けてもいいんだ」という気持ちが芽生えるのは当然ですから・・・。結果は3敗でした。

2002のトルシェジャパンの時もそうです。決勝Tに進出してすでに満足していましたね、トルシェは。
「ここからはボーナスだ」と言った彼の言葉にそれがよく現れています。
岡田監督は、それを戒めとしているようです。だから最初からベスト4と公言したのかも知れません。

大会直前の日本代表の戦いぶり、試合結果をみて「岡田監督では駄目だ」と多くの人が思ったのではないでしょうか?それが今では、それに口をぬぐっています。僕もその一人でしたから、「懺悔」です。今になって岡田監督を褒めるなら、それまでの自分の物言いを撤回して謝るべきでしょうね。
サッカージャーナリストの人々は・・・。

日露戦争が終り、史上空前の勝利を成し遂げた聯合艦隊を解散するとき、東郷平八郎は次の言葉でその解散の辞を締めくくりました。

「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」

日露戦争中、日本のファンであった時の米国大統領セオドア・ルーズベルトは、それに非常に感銘を受け、英訳したものを彼のスタッフに配ったと言われています。

パラグアイに勝ち、次の試合、日本対スペインかポルトガルとの試合を何としても観たいですね。








2010年6月22日火曜日

「坂の上の雲」から考える

「坂の上の雲」は、いつだったかの「文藝春秋」で、企業経営者の最も好きな本として確か第1位に挙げられていました。昨年末の第1回放映とも相俟って、再びその人気に火が付いているようですね。司馬遼太郎は、生前その映像化について非常にナーバスになっていたといいます。彼は日清・日露の戦いを明確に「祖国防衛戦争」と言い切っていますが、それを映像化することを躊躇していました。

僕にとって同書は何度も読み返した本の一つですが、放映は観ていません。さらにいうと、「坂本龍馬」は僕の好きな人物の中の一人ですが、やはり今の「龍馬伝」は観ていません。

「坂の上の雲」は秋山好古、真之兄弟を話の中心においた明治期日本の青春群像と、国家の隆盛を重ね合わせたようなものです。感情移入がしやすく、あの頃の日本に対して多くの読者が共感を覚えるのではないかと思います。

さて、企業の寿命30年説というのがありますね。前回紹介した三品和弘によると、30年というのは「企業」ではなくて「事業」と考えるとわかりやすいとしています。なにも無いところを耕し、種をまき、実を結び収穫する。しかし、やがて土地が痩せて来て収穫量が減る。それがひとつの事業の終りだと。偶然なことに30年というスパンは人間の代替わりとほぼ同じなのです。

まさしく皇国の興廃をかけた日露の戦いは明治38年(1904)に起こりました。明治日本の国内体制の完成を最後の内戦である西南戦争(明治10年)後であるとするなら、約30年後にそれを迎えることになりました。日露戦争後、児玉源太郎をはじめとする維新の経験者の多くの寿命が尽きていることを考えると、また、維新の経験者を「創業者」と捉えるならば、あの戦争は明治日本創業者たちの最後の仕事となったことになります。創業者というジェネラリストが、二代目の戦争のスペシャリスト(陸軍大学、海軍大学を卒業したエリート将校)を使いこなして戦った戦争というわけです。
しかも、二代目も江戸末期生まれであり、道徳的支配者としての「武士」のモラルを濃厚に引き継いでいたことが幸いしたように思います。司馬遼太郎は、その例として明治期日本の汚職の少なさを「世界史の中で稀」としていますね。

余談ですが、そのひとつのエピソードとして、明石元次郎大佐の話をあげましょう。明石大佐は命令により、ロシアに潜入して帝政反対勢力を結集しロシア国内に革命を起こそうと奔走しました。かれは当時の日本の国家予算の0.6%(不正確)だかをその活動資金として支給されてましたが、帰国後残金を1銭たがわず、明細書と併せて返納したといいます。

日露戦争後、創業者であるジェネラリストは死に絶え、二代目以降のスペシャリストが軍を率いるようになります。その二代目、三代目は何をしたか?司馬遼太郎ふうにいえば、彼らは国を滅ぼしました。象徴的なのが日露戦争後約30年の昭和14年(1939)「ノモンハン事件」です。これは満州と蒙古の国境紛争なのですが、ソ連の機械化師団に日本軍は完膚なきまでに惨敗するのです。日本軍の戦法は前に説明した「白兵突撃」です。鉄のかたまりに肉のかたまりで正面からぶつかったわけです。この事件については、いずれまたご紹介します。昭和期の日本は、創業者の遺産にしがみついていたといえるでしょうね。痩せた土地で同じ作物を植え続けていたわけです。

日本の高度経済成長は昭和30年(1955)から始まったといわれています。日本経済を牽引したのは、創業者が率いる企業が多かったのではないでしょうか?あくまでもイメージです。検証してません。ただ、代替わり、または事業の寿命をを30年とすると、妙に符合します。1990年代(平成初頭から中期)から日本は失われた10年とよばれる長い不況時代に突入します。多くの企業で創業者から代替わりした時代だからと言えなくもありません。


江戸幕府が15代続いた原因をもっと考えるべきなのかも知れませんね。

2010年6月18日金曜日

やはり名著だ・・・

早いもので、3と1の会も来月の開催が第29回の開催となる。その第1回は、私が講師を務めて左記の「経営戦略を問い直す」を皆さんにご紹介した。僕自身は、この本で著者三品和弘を知り、その後彼の全著作をそろえた。そのすべてが非常に面白かった。「戦略」という言葉を使いさえすれば、なにかしら高尚な感がする、頭を使った感がする。ただそういう空気に流されてその言葉を多用しているだけなのが現実の姿だと、著者は言いきっている。単なる「戦術」にしかすぎないものまで、「戦略」という言葉を使っているため、真に「戦略」といった言葉でしか定義できない「なにものか」を伝える術を失ってしまっていると。

著者は、経営戦略とは「長期利益の極大化」を目的としたものに他ならないと断言する。10年単位での長期利益の極大化こそが目的だとしている。


著者は「戦略」という言葉の誤用の例として、2001年の日経ビジネスの記事から、当時のアサヒビールでの例を挙げている。アサヒビールでは、本社のスタッフ部門に人事戦略部、経営戦略部、IT戦略部と、その語を用いた。それは「スタッフは戦略を考えてほしい」という経営トップの思いが反映されているからだそうだ。

著者いわく、「ここにあるのは『頭を使って仕事をしてほしい』という願望であって、その願望を表すために戦略という言葉を流用するのは拡張解釈の域すら超えている」と・・・。

もうひとつ。ソニーのサイバーショットP3の成功についての日経ビジネスの以下の、
「鈍化しているデジタルカメラの伸び率を復活させるべく選んだ戦略の結果だった。同社のデジタルカメラ事業を再離陸させるためには、女性のデジタルカメラ初心者をいかに獲得するかが課題だった。同社は20~30代の女性新規ユーザーを獲得する案を練った」
という記事を、「これはクラウゼヴィッツが定義した『戦術』そのものである。」とばっさり斬っている。商品個々の競り合いは、軍事用語でいう交戦に相当する。いかに勝つかという関心は、時間の流れの下流でしなかく、戦略は同じ時間のもっと上流に位置する。すなわち「戦うか否か、または今か後か」である。それこそが戦略の領域であるとしている。

著者は誰でもいつでもつくれるようなものは戦略の領域には属さないとし、長期利益の極大化を成し遂げた日本企業の中からいくつかの重要な事項を指摘している。それは、「長期利益の極大化を成し遂げている企業の社長の任期は全て10年以上である」ということである。社長の長期任期が成功を約束はしないが、成功企業の全てで経営のかじをとるトップは10年以上の任期を務めているというデータを紹介している。同じ業界に属し、創業も同じころの「キヤノン」と「ニコン」、「花王」と「ライオン」の企業収益の差、どちらも前者の成功は長期にわたって舵取りをおこなってきた経営者の心眼にこそあったとし、「戦略は為すのではなく、むしろ読むことにある」と断言している。


以上の論を敷衍、さらに掘り下げたのが左記の本で、こちらは冒頭に、日本の三大ハムメーカー、日本ハム、伊藤ハム、丸大ハムの企業業績の比較から始まっている。いずれも創業は同時期で、であったこの3社の業績の推移を載せ、今では比較にならないほどの差を残り2社につけて業界首位にたった日本ハムの成功の原因は、20年以上社長に君臨した創業者であったということを推測させている。他2社ともに、創業社長が亡くなり二代目社長になった時から凋落が始まっている事実があるのだ。

この本は日本の上場企業1千社超の、約50年にわたる長期の業績から、利益の極大化を成し遂げ続けている企業が僅か数10社しかないことを明らかにしている。

1970年代だった思うが、エズラ・ボーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになり、日本的経営の良さが、アメリカから発信された書籍によって再確認された時期があった。当時の日本企業は世界市場をまさしく席捲し、米国企業の凋落が騒がれた時期であった。これも、著者の示したデータから考えると、当時の日本企業の経営者は創業者が多く、一方の米国企業は2代目、3代目経営者が多かったからと言えなくもないし、事実その通りでもあった。

翻って、現在はどうか?元気な日本企業は、やはり創業者が経営のかじ取りをおこなっている企業ばかりである。「日本電産」しかり、「ユニクロ」しかり、「ソフトバンク」しかり・・・。ソニーの凋落は盛田氏が亡くなってから始まり、今では韓国サムスンに売上を抜かれてしまっている。サムスンは創業者が率いている。

創業者と2代目、3代目社長の差は何なのでしょうか。僕にはよくわかりませんが、ひとつは「勇気」があるか否やではないかなと思います。

「西郷南洲遺訓」にこうあります。

「事に当たり思慮の乏しきを憂うることなかれ。およそ思慮は平生黙坐静思の際に於いてすべし。
有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当たり率爾に思慮することは、例えば臥床夢寐(むび)の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し」

「戦略」は誰もが「バカな」と思うことをやり遂げるからこそ成功し、その真意をきけば「なるほど」と納得するもの。思慮がすぎれば「バカ」なことをやりとおすことができなくなってしまうからではないでしょうか。勇気の問題かなと思う所以です。

「創業」の成功が次世代の成功を約束しないのは歴史をみれば明らかですね。鎌倉幕府の源氏政権は3代で終り、豊臣政権は僅か1代で亡びました。秀吉は仕組みを残して自らの政権を存続させようとしましたが、失敗しました。この話はいずれまた。


著者三品和弘先生(神戸大学の教授)は、最近新刊を出しました。左記の本です。多分、奥田さんが買ってくれることになっています。


それではまた。

2010年6月15日火曜日

いろいろ思う事

20年ほど前になりますが、イギリスにいた時のイギリス人の友人が日本に職を得て初めて来日した夏に、日本の蒸し暑い夏にやっつけられ、1カ月で体重が7キロも落ちたそうです。アジアの蒸し暑い夏は、欧州のカラッとした暑さとは別物ですからね。毎年、夏になるといつもそれを思い出します。もう一つ彼の事で印象的なのは、僕らが夏の風物詩として感じる蝉の鳴き声を非常に不快な顔をして、「あれは何の音だ?」と僕に尋ねたこと・・・。かなり広く知られていますが、日本人は虫の鳴き声まで言語を司る左脳で処理するのに対し、日本人以外は虫の声はあくまでも雑音でしかなく「右脳」で処理するということ。日本人が第二外国語を学ぶのに苦労するのは、そのためでもあるらしいですね。

本を書き上げて以来、1ヶ月半ほど「活字」に食傷してまして、一切の読書はしていなかったのですが、その反動でしょうか、ここんところ、毎日1~2冊のペースで蔵書をひっくり返して本を読みまくってます。何回目の読みなおしかはわかりませんが、「八甲田山死の彷徨(新田次郎)」で、再びリーダーシップについて考える事がありました。今でも明確に覚えていますが、僕の中2の夏ごろ、13歳のことですが映画で「八甲田山」を観て、非常に感動しました。芥川也寸志(芥川龍之介の子供)作曲の同映画のサントラ盤まで買ったことを憶えています。映画を観たあとに、買ったのが同書です。今から思えば何と早熟な子供だったのかと思います・・・。今でもリーダーシップ研修の題材に使われるらしいですよ、その映画は。

この話、御存じでしょうか?

主人公北大路欣也演ずる青森歩兵第五連隊の神田大尉は、高倉健演ずる弘前歩兵第31連隊の徳島大尉とともに、日露が開戦し、津軽海峡がロシアに占拠された場合の日本列島の東西の連絡が可能か否かそれも冬季の。それを課題として与えられるのです。命令ではありません。徳島大尉は約30名の小数精鋭を以て冬の八甲田山を踏破する計画を立て、神田大尉も同様に小数精鋭をもってそれにあたろうとします。ところが、神田大尉の方は、直属の上官である山田少佐がそれに異を唱えます。「31連隊と同じような編成では5連隊らしさがでない」と。そのため、5連隊は結局約200名にも及ぶ大部隊での計画となり、しかもそこに山田少佐も参加するということになります。これを知った5連隊の連隊長は、指揮権の不明確になることの危惧を表明しますが、山田少佐の「指揮官はあくまでも神田大尉であり、私は単なる附き添い」の弁明に、最終的に許可を与えます。

徳島大尉の計画は、「無謀すぎる」と再考を求められたほどでした。それは10泊11日にも及ぶ大遠征だったからです。八甲田山に入る前に、充分に冬の寒さに慣れさせようとした徳島大尉の綿密で周到な計画でした。行程にはすべて地元猟師等の道案内を付け、民家に宿泊するという計画でした。
神田大尉も、道案内なしで冬山へ入ることの危険性を十分過ぎるほど知っており、道案内を確保していましたが、指揮権のないはずの山田少佐に「そんなものは無用である」と言われ、地図とコンパスだよりに八甲田山に向かわざるを得なくなります。5連隊の計画は2泊3日の行程でした。地理的に徳島大尉とは違い、冬の雪山に馴れることなく入っていきます。

5連隊の行程初日から、今までに例をみないほどの低気圧が八甲田山を蔽い、案内人を持たない200名は雪の嵐に翻弄されます。随行軍医から「雪中行軍の中止」を進言された神田大尉は、行軍の中止を決断しますがそれが声になるより前に山田少佐の「出発!」の声に空しく消されてしまいます。指揮権はいつの間にか山田少佐に完全に移ってしまっていました。

猛吹雪と胸までつかる積雪にあえぎながらも先頭に立つ続けた神田大尉ですが、途中ある下士官の進言を不用意に受け入れた山田少佐の命令に、完全に道を見失ってしまいます。地図とコンパスから導き出したルートは違うルートへ導かれてしまうのです。そこから、200名の遭難が始まります。

この映画のキャッチコピーが「天は我々を見放した」でした。これは、帰路を見失ってどうにも動きがとれなくなってしまったときに神田大尉が絞り出すような声で叫び、立ちつくすシーンから採られた言葉です。人事不省に陥ってしまった山田少佐にかわり、最後まで指揮統率に努めてきた指揮官のこの絶望に、回りにいた兵士たちは次々と斃れていきます。

全隊員が無事に踏破した31連隊に対し、5連隊は生存者僅かに10名でした。生存者はほとんどが凍傷にかかり、手足の切断を余儀なくされ、五体満足で生還したのは2~3名程度だったと思います。世界の山岳史上最大の遭難事件でした。

この事件から何を読み取るか、みなさんにまかせましょう。

もう10年以上前になりますが、女房と700キロ向うの八甲田山へ出かけたことがあります。テントを積んで3泊4日の旅行でした。八甲田山を目前に控えた僕は感慨無量でした。あの時の感動は何ともたとえようがありません。

御存じかと思いますが、作者新田次郎は「国家の品格」の作者藤原正彦の父上です。

それではまた。

2010年6月14日月曜日

タイムリーではありませんが・・・

第94代の日本の総理大臣に管直人が就任しましたね。
何でも、支持率は59%にも上っているそうです(6月14日読売新聞)。

これまで、眼のうつろな御仁についてはこのブログでもかなり批判して来ました。
信念もなく、リーダーシップはとれず、しかも「友愛」などどいう言葉を恥ずかしげもなく使う、
さらには「命が大事」だ等と言う・・・。彼の御仁は私にとって不倶戴天の敵も同然でした。

私自身は、新総理に対して好悪の感情はほとんどありません。
世襲議員ではなく、草の根の市民運動家あがりの総理ということですが、
政治信条はさておき、政治家としての力量、資質については私は判断できる要素をあまり持っていません。
しばらくはお手並み拝見でしょうね。
彼の目指そうとしている、おそらく「大きな政府」も明確なひとつの政治理念であるでしょうから、
「小さな政府」の対立軸となりますし、その両者の密度の濃い議論が衆目にさらされることになれば、
少しはこの国の「民意」とやらもムードに流されないだけのなにものかを得る事ができるようになるかも知れません。

来月の参院選はどうなるんでしょうね。
民主党が過半数を獲得してしまったら、もう民主党のやり放題となります。
それを是とするか非とするか・・・。
逆に、民主党が過半数を獲得できなかった場合は、完全な「ねじれ」となって政策はかなり停滞するでしょう。
どっちに転んでもあまり好ましい状況ではないですね。

最後にどうしても言いたい事は、「マニュフェスト」なるものの空しさです。
衆院選でそれを掲げて戦った民主党は、一体いくつのそれを実現できたのでしょうか?
それをきちんと総括せずして、またもや「マニュフェスト」なる「空語」をまき散らすのは本当にやめてほしい。
そもそも、国防予算に匹敵するほどの財源が必要となる「こども手当」は、彼らは「予算の組み替え」と「無駄を削る」ことによって十分に捻出できると言っていたのですよ。「事業仕分け」なるものの目的は、そこにあったはずです。しかしながら、いざふたをあけてみたら、1兆円にも満たない予算削減しか成果を挙げられなかった・・・。成果は目的に対して測られるものですから、その意味で事業仕分けは成果0ですよ!国の事業の無駄が明らかになったとかいうのは成果でもなんでもないはずです。

野党時代の情報と政権与党の情報は当然差があるはずでしょうから、政権与党になってよく検討してみたらとてもじゃありませんが、マニュフェストのいくつかは絵空事でした、ごめんなさい、とはっきり総括して言うべきでしょう。そして過ちを認めたら、それを正せばいいのです。それが最低限必要な礼儀だと思うのですが。

2010年6月11日金曜日

組織の不条理 最終回

 3回に渡って無謀な白兵突撃を繰り返した日本軍の行動の裏には、一般的に日本軍に内在した非合理性が指摘されています。「失敗の本質」(中公文庫)がそうです。グランドストラテジーの欠如、情陸海軍で情報を共有しない、情報を軽視した作戦立案等々・・・です。
 なぜ、日本軍は白兵突撃戦術を変更できなかったのでしょうか?問題はそこにつきます。日本陸軍には日露戦争の戦勝後に策定された「歩兵操典」というのがありました。そこには兵器、兵力の劣勢を補う精神力が強調され、その強靭な精神力に支えられた攻撃精神に基づく歩兵の銃剣突撃こそが戦いを決するとされていました。そしてそのように歩兵の装備と、それを中心とする戦闘集団の装備、日々の訓練が決められていたのです。
 米国の圧倒的な火力を前にするまで、その戦術で日本陸軍は成功を収めてきました。満州事変、支那事変での中華民国との戦い、大東亜戦争勃発後のマレー、シンガポール、フィリピン攻略戦、すべてこの白兵突撃で作戦を成功させてきました。多くの成功体験と自信があったのです。この戦術がデファクトスタンダードとして成立していたのです。したがって、これを放棄してより効率的な戦術へと作戦を変更すれば、日本陸軍は巨額のコストを負担しなければならなかったわけです。仮にそれを変更することは、これまで数十年に渡って積み上げてきた白兵突撃を勇猛に指揮する事のできる指揮官や兵の育成、ひいてはその戦術をもとにした戦闘組織など、すべてが埋没コストとなってしまいます。しかも新たな戦術を採用するにはその調整コストも膨大になります。
 
 同書では次のようにまとめています。
「もし日本陸軍が戦闘を中止し、撤退し、そして白兵突撃戦術を放棄すれば、日本陸軍は膨大な埋没コストと取引コストを生みだす様な状況に置かれていたのであす。とくに、ガダルカナル戦では、白兵突撃戦術を放棄し、より効率的な戦術に変更することによって得られるベネフィットよりも、それを変更するために必要な埋没コストと取引コストがあまりにも大きい状況にあったといえる。(中略)換言すれば、日本陸軍によって白兵突撃戦術を放棄し、膨大なコストを発生させ、そのコストを確実に負担するよりも、未来に向かって白兵突撃戦術のもとにわずかな勝利の可能性を追求したほうが、合理的だったのである。」

 合理的な選択をしたがゆえに、ガダルカナル島の悲劇を生んだというわけですね。


 同書は「合理的な選択をしたゆえに非効率と悲劇を生みだした」という新しい見方を示しています。他にも「インパール作戦」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6)について、なぜ反対者の多かった無謀な作戦が実行されたのかという問題を、そして不条理を回避した事例として「硫黄島の戦い」「沖縄の戦い」などを紹介しています。しかし、なぜ不条理を回避したかについては、すべて後知恵で理屈を付けているように僕は思います。不条理を回避した原因は、組織ではなく「人」そのものにあったと僕は思うのです。映画にもなった「硫黄島の戦い」では、結果的に島を奪われましたが、守る日本軍よりも攻める米国海兵隊の戦死傷者の方が上回った最初で最後の戦いになりました。これはこれまでの水際撃滅作戦を回避して地下陣地に潜って執拗にゲリラ戦に徹した戦術をとった司令官栗林忠道の力によるものでしょう。同書は「沖縄の戦い」も不条理を回避した事例として挙げていますが、僕はこれには疑問です。沖縄も当初は白兵突撃を固く戒め、兵力を温存して本土決戦準備の時間を稼ぐという目的に徹していました。これは八原博通という作戦参謀の立案した戦術です。しかし、陸海軍中央の執拗な作戦変更指示に結局は従ってしまうのです。情に負けたのです。戦艦大和は特攻出撃した。毎日陸海軍の特攻機は沖縄海上の米国艦船攻撃をおこなっている。なのになぜ沖縄地上軍は外に出て華々しく戦わないのか!という感情論に屈したのです。結果的に、その華々しい戦いは、守る沖縄地上軍の壊滅の時期を早めただけです。この八原参謀は、珍しいケースですが自ら投稿して米国の捕虜になっています。そして沖縄戦の実相が今に知られたわけです。

 同書の帯には「破綻に突き進む組織にしないために」とあります。それは制度の問題ではなく、組織を構成する「人」そのものに焦点をあてる必要があると思います。

 3年8カ月に及んだ大東亜戦争の実相を学ぶことは、戦略、組織、制度、人材、そのすべてにおいて最高の教科書となると僕は思います。


 

2010年6月9日水曜日

組織の不条理 その3

 ガダルカナル島は、オーストラリア大陸の北東に連なるソロモン諸島にある。日本海軍はそこに昭和17年(1942)7月に飛行場建設のために約3000人を上陸させました。そのうちの2500人は労働者であり、戦闘部隊ではありませんでした。帝国海軍は米豪分断のために、そこに飛行場を建設したのです。それを陸軍は知りませんでした(!)。米国は、日本が飛行場を完成させたのを見計らって、海兵隊、兵力約11千人を上陸させました。一方僅か500名の兵力しか持たない日本軍はなす術もありません。あっという間に飛行場は奪われてしまいます。
 日本陸軍は、島の奪回のために兵力2600人の先遣隊を組織します。当初、日本陸軍は米国によるその島の占領を威力偵察と推測していました。本格的な米国の反攻作戦とは認識していなかったのです。したがって、その程度の兵力で十分に飛行場は奪回できると踏んでいたのです。

(作戦1回目)
 8月18日、日本陸軍は当初の2600人を更に分け、約900人を先遣隊として島に上陸させます。これは指揮官一木清直大佐の名前をとり、一木支隊と呼ばれています。一木大佐は作戦実行前、「ガ島を奪ったら、ツラギも奪っていいか」と完全に島の奪回の成功を信じていたと言われています(ツラギはガ島北にある島、ここにも米国が上陸していた)。彼は戦うことになる米国の兵力を約2000と聞かされていました。我に倍する敵でも完全に勝てると思っていたのです。
 戦争における「戦略→戦術→作戦」では、武器がそれを決定づけます。当時の日本陸軍の歩兵銃は明治38年に正式採用された「三八式歩兵銃」、及びその改良型の「九九式歩兵銃」で、これは弾倉5発の単発式でした。つまり連発できないのです。世界各国の歩兵銃はほとんどが自動小銃になっていましたが、日本は貧しい国力から歩兵銃の自動小銃化はできなかったのです。また、日露戦争の戦勝によって日本陸軍は「銃剣による白兵突撃」が金科玉条になっていました。当然一木大佐もそれにより島の奪回ができると踏んでいました。「夜間の白兵突撃」により米国を駆逐できると思ったわけです。
 米国は、日本兵の夜間攻撃を警戒してジャングルの至るところに集音マイクをしかけて備えました。貧弱な装備で圧倒的な弾の嵐の中に飛び込んだ一木支隊は全滅します。銃の先につけた剣で、機関銃の弾の嵐の中に飛び込んだわけです。8月20日のことです。

(作戦2回目)
 一木支隊の全滅を受け、日本陸軍は今度は兵力6000人を上陸させます。9月初旬です。この新たな部隊が島に上陸直後に見た者は、幽霊のように彷徨う一木支隊の残兵でした。一木支隊は一週間分の食糧時参で島に上陸したのち、補給のないまま、飲み水にも不自由しながら、虫や、草を食べ生をつないできたのです。この頃は、制海権と制空権が米国に奪われていたため、輸送は夜間に輸送船ではなく駆逐艦(搭載能力はかなり低い)で行うしかありませんでした。これで十分な武器、食糧、弾薬が送れるわけがありません。兵力だけは増えましたが、装備した武器は前回同様でした。今度の指揮官は川口清健少将。川口部隊の作戦は、前回同様に夜間の白兵突撃でした。当然のことながらこの作戦も失敗します。9月中旬です。この戦いを経験した米国の軍人は「撃っても撃っても銃口に向けて突っ込んでくる日本兵が恐ろしくてたまらなかった。そして、このような無謀な作戦を性懲りもなく続ける指揮官は馬鹿だと思った」と文章に残しています。

(作戦3回目)
 二度の作戦失敗から、日本陸軍は「アメリカは本気だ」と気付きます。そして、島の奪回を図るために十分な兵力と、火力の必要性を認め、兵力約15000を上陸させます。東京の大本営からも作戦を指導するために参謀を送りこみもしました。しかし、人間だけは初期の人数を上陸させたものの、食糧、兵器、弾薬はまたしても輸送船が沈められたため、兵器、弾薬は計画の半分から1/5しか陸揚げすることが出来ませんでした。陸軍はこれまで作戦に失敗したのは、兵力の小出しによるもので、正式な師団(自立できる戦闘単位)を送りこめば米国に負けるわけがないという強烈な自信を未だに持っていました。採用した作戦はまたもや「夜間の白兵突撃」でした。結果は書くまでもありません・・・。

(その後)
 島の奪還を諦めた日本陸軍は、残存兵力約1万人を夜間密かに撤退させます。撤退作戦の完了は昭和17年の12月のことです。撃つに弾なく、食うに米なく、飲むに水なく・・・。前述したとおり、15千人が餓死したと言われています。

(以下余談)
 建国以来の歴史を持ちながら、実際は常に廃止の影におびえながら存続していた米国海兵隊は、太平洋諸島における日本との戦いで、その存在意義を再確認していきます。組織が自己改革しながら存在の目的を考えだし、そのとおりの結果を出していったのです。米国海兵隊の歴史は、組織の自己変革の最高の教科書です。

 さて、この無謀な作戦ですが、なぜ日本陸軍は失敗から学ぶことなく三度も同じ失敗を繰り返したのでしょう?これが日本陸軍の不合理な組織の好例として挙げられているものです。次回は、合理的な選択をしたゆえにこのような非効率で不条理な結果を招いたという同書の見方を紹介します。

続く


 





 

2010年6月2日水曜日

組織の不条理その2

同書が使う新制度派経済学のアプローチとは、具体的に以下を指します。
①取引コスト理論
②エージェンシー理論
③所有権理論

 そもそも経済学で扱われる人間は、完全合理的な経済人と定義されていました。
しかしながら、新制度派経済学はすべての人間は限定合理的であり、限定された情報の中で意図的に合理的にしか行動できないという『限定合理性』と、すべてに人間は効用極大化するという『効用極大化』の二つの仮定から、市場と組織を制度と見なして分析するものです。

 ここでは、「取引コスト理論」について説明し、それをもとにした日本軍の不合理の見本として取り上げられる「ガダルカナル島」の作戦についての同書の見方を紹介しましょう。

 取引コスト理論は、「すべての人間は限定合理的であり、そのために人々は相手の不備に付け込んで自己利害を追及する機会主義的な傾向があるとする。このような限定合理的な人間からなる世界では、合理性と効率性を倫理性(正当性)は必ずしも一致しない。合理的ではあるが、非効率で非倫理的(不正)であるという不条理が発生する。つまり合理的非効率や合理的不正と呼びうる現象が起こる」というものです。

 例えば、ある企業がより多くの利益を得るために経営計画をたて、多額の投資を行って、必要な人材の手当てをして行動し始めたとします。しかし、そのうち外部環境が変化して、今までの計画では非効率になることがわかり、新たな計画が必要となったとします。この場合、企業は現在の計画を棄てて、より効率的な計画に移行する事ができるでしょうか。
 取引コストが発生する世界では、容易にその計画を変更する事はできません。なぜなら、既存の計画を放棄するには、多大な取引コストが発生するからです。多額の投資も埋没コストとなり、手当てした人材、外部との取引関係などを断ち切る必要があるからです。したがって、それが好ましくないとわかっていても、容易に計画を変更できず、既存の計画にしがみつく事がかえって合理的と思えるようになるのです。

「QWERTY」のキーボードの配列を考えてみましょう。この19世紀から使われている配列は、使用する単語の頻度、指の動きなどに関する人間工学的観点からは非効率であることがいわれています。実際、この配列はあまりに早く打ちすぎると、タイプライターのアームが絡まるため、逆に手の動きを遅くするために考案されたもので、今となってはその技術上の必要性はありません。しかし、なぜそれにしがみついているのか。人間工学に基づいた、より効率的な配列が生れなかったのはなぜか。これは歴史的経路依存性と呼ばれているもので、配列を変えるコストがあまりにも大きいために、非効率な配列をそのまま受け継いでいるわけです。

 取引コスト理論というもの、おわかりいただけたでしょうか。最近は「スイッチングコスト」という言葉でも説明されるものと同じですね。

 次回は、ガダルカナル島の日米の戦いをご紹介します。昭和17年(1942)8月に起こった戦いで、日米の地上軍(日本陸軍対米国海兵隊)が初めて相まみえた戦いです。この戦いで日本軍は延べ3万人を島に上陸させ、約4カ月続いた戦いで2万人が戦病死、そのうちの15千人が餓死であったといわれています。

続く



 

2010年6月1日火曜日

組織の不条理 その1


不合理な組織の代名詞として、かつての帝国陸海軍が槍玉に挙げられます。

一面では確かにそういった面も数多くありました。硬直した組織の弊害が至る所に見られたのは事実です。
例えば人事制度。帝国陸海軍は、戦時においても平時の序列を乱す事はしませんでした。序列とは士官学校(海軍なら兵学校)卒業時の成績、または陸軍大学(海軍大学)の成績順位です。これだけは頑なに守っていました。対する米国は、平時こそ学校卒業時の成績は重要視されましたが、戦時になると大抜擢も珍しくなく、まさしく適材適所の人事をおこなっていました。

今日の企業経営においても、反面教師として帝国陸海軍がなぜ破れたかを分析することは大変に役立つことだと思います。あの野中郁次郎も執筆者に名を連ねたベストセラー「失敗の本質」が有名ですね。
つらつら思いますと、我々はあの戦争から一体何を学んだのでしょうか?

ドナルド・キーンという日本で高名な米国人の日本文学者がいます。彼は、戦争中米国の日本語学校で日本語を学んだ語学将校でした。1940年、米国は戦争の1年前にあたるこの年、予想される異文化の国日本との戦争に備えて、大量の日本語を話す軍人の養成にとりかかります。そのために米国陸軍は日本語学校を作ったのです。確かこの前後ですね、あの有名な「菊と刀」がやはり敵国日本を分析するために書かれたのも。
米国は、この日本語を使える人間を使って、捕えられた日本兵の訊問だけでなく、日本兵の遺した日記や手紙などからも多くの情報を得ていました。

翻って、日本の状況はお寒い限り。占領した現地(南方地域)の行政を司るのに、現地の言葉はもちろん、英語はどう考えても必須です。敵国は米英ですから・・・。しかしながら、語学将校の養成を図ったということは全くなく、そういった正論を吐く人間に、「占領国に日本語を教えるくらいの気持が必要である」という精神論で押し切られてしまいます。こういった論調、今でも日本の組織で通用しそうだと思うのは僕だけでしょうか?

ちなみに、帝国陸軍の将校養成学校(陸軍士官学校)では英語は学べません。外国語して科目にあったのはロシア語、ドイツ語、中国語です。さらに言うなら、その士官学校で「対ジャングル戦」が教えられるようになったのは、昭和18年(1943年)、開戦後2年経過してからです。泥縄もここに極まれりですね・・・。

さて、前置きが長くなりました。

「組織の不条理」という本。副題に「なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか」とあります。
この本は、前述の「失敗の本質」とは異なり、不合理の代名詞ともいえる帝国陸軍の二つの作戦を分析するのに、新制度派経済学のアプローチを使って新しい見方を提供しています。曰く「合理的な選択をした結果、不条理に陥った」と・・・。

この本の内容と、僕なりの私見を書いていこうと思います。
今日はこれまで。

大衆の反逆

『言葉は乱用されてきたために権威を失墜した』

最近、僕はつくづくこのように思います。
しかしながら、世はあげて「Twitter」なるものに浮かれているように思います。
個人の「つぶやき」なんぞになぜそんなに群がるのか・・・。
僕には理解不能であります。何でも政治家もこぞって「つぶやい」ているとか・・・。


『ことの善し悪しはともかく、今日のヨーロッパの社会生活において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に上ったことである。大衆はその本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、いわんや社会を支配するなどおよびもつかないことである。したがって、この事実は、ヨーロッパが今や民族、国家、文化の直面しうる最大の危機に見舞われていることを意味している。こうした危機は、歴史上すでに一度ならず襲来しており、その様相や、それがひきおこす結果は周知のところで、その名称も知られている。つまりそれは、大衆の反逆と呼ばれている。』

『この大衆人とは、自分の歴史を持たない人間、つまり過去という内臓を欠いた人間であり、したがって「国際的」と呼ばれるあらゆる規律に従順な連中である。それは人間というよりはむしろ、たんに市場の偶像によって作りだされた人間の一つの殻にすぎない。すなわち、彼らには「中身」が、つまり頑として他人のものとなることを拒否する譲渡不能な彼自身の精神が、取消すことのできない自我が欠如しているのである。そのため、彼らはつねに、中であることを装おうと待ち構えた状態に置かれている。大衆人はただ欲求のみを持っており、自分には権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。つまり、彼らは自らに義務を課す高貴さを欠いた人間―sine nobilitate―であり、俗物snobなのである。』

これは、オルテガ・イ・ガセットというスペインの社会学者が1930年に著した「大衆の反逆」の中の一節です。

僕は、世論調査によって表明されるこの国の民意などというものは、一切信用しません。あんなものは、感情ですらなく、その時々でうつろうムードのようなものだからです。考えてもみて下さい。小泉内閣時代、「郵政民営化」を争点にして衆議院選挙が行われ、時の民意は「民営化」に賛成しましたね。それも圧倒的な大差で。今、それがないがしろにされつつある法案が可決されたにもかかわらず、なぜ「反対」の民の声があがらないのか。郵政民営化にYesといった民の声は一体どこへいってしまったのでしょう。

当該事案について、僕は知見を持たないのでその是非は判りません。ただ、問題にしたいのは「民の声」がいかにいい加減なものかを考えてもらいたいと思うだけです。

政治家たるもの、いかに民の声に叛こうと国家百年の大計のためには、鬼神の断をもって事を進めることが必要な場合があります。そして、政治家にはそれを条理を尽して民に説得する言葉を持つ必要があります。それは「つぶやき」などとは全く無縁のものであることは言うまでもありません。

民俗学者柳田国男が著した「京童(きょうわらべ)」という人間類型があります。
彼によるとその特徴は、

①全体に気が軽く、考えが浅くて笑いを好み、しばしば様式の面白さにほだされて問題の本質を疎略に取り扱う
②群れと新しいものの刺激に遭うとよく興奮し、しかもその機会は多く、且つ之を好んで追随せんとしたこと
③何に使ってよいか定まらぬ時間の多い事。そうして何か動かずにはいられぬような敏活さ、是がまた容易に他人の問題に心を取られ、人の考え方を自分のものとする傾向を生ずる
④隣以外の人に一時的の仲間を見付ける為に、絶えず技能を働かせ、また之を改善と努めること

これ、まさしく日本の現代人のことを言っているように思えますがどうでしょう。
しかし、彼はこれを中世の終り頃から京都に顕在化してきた都市民のことを指して説明したのです。「わらべ」と言っても子供のことを指すのではなく、「単に責任を負わざる無名氏」というほどの意味です。
冒頭で述べた「大衆」ですね、要するに。

ここで問題は、今やその「大衆人」に世の中を牛耳られている状況にあるということだと僕は思います。

『今日の状況を改善するために必要な第一条件は、それがいかに困難なことであるかをじゅうぶん認識することである。そうすることによってのみわれわれは、その真の発生地である深層に横たわっている悪を攻撃することができるからだ。ある文明がデマゴーグの手に落ち込むほどの段階に達したら、その文明を救済することは事実上、非常に困難である。デマゴーグは文明の偉大なる扼殺者であった。ギリシャ文明もローマの文明も、この唾棄すべき連中の手によって瓦解したのであり・・・・(後略)』

このオルテガの論は「貴族的」と批判されます。確かにそういう点も否めません。
「democracy」の語源は「demos=民衆」の「kuratein=支配」です。単なる政治の一形態であるにもかかわらず、「民主主義」というようなある種の価値感をそこに与えてしまったために、その呪縛から逃れられないような今日の状況下、こういった論も振れすぎた針(民衆=民の声万歳みたいな)を戻すために必要なのではないかなと思いますがどうでしょう。

2010年5月18日火曜日

独立国の矜持

 普天間基地の問題が予想通り片付きそうにありません。

 自民党政権時代に、何年もかけて検討した結果が辺野古案だったのですから、それを上回る案が政権が交代したからといって出てくる訳がないですね。結局辺野古に戻って来て、しかも「くい打ち」による滑走路など、そんな脆弱な滑走路で米国の了解を得られるわけないのは、わかりきったこと。日米関係は急速に冷えてきていますね。もともと、米国民主党は伝統的に親中なのです。かつて、蒋介石を助けて日本との戦争を仕向けたF・ルーズベルトも民主党ですからね。しかも、今の中国は日本をも上回るGDPを挙げつつあり、米中の経済的な紐帯もかなり濃くなってきています。伝統的に反共の共和党ですら中国との経済的連携に大きく舵をきったとしても不思議ではありません。

 しかも、民主党のかの大幹事長は600人もの子分を従えて訪中。沖縄の基地移設問題も併せて、「日本は米国をないがしろにしている」と反感、嫌日ムードが蔓延しても仕方のないことですね。一庶民としてはただ、切歯扼腕、うつろな目をした御仁に罵詈雑言を浴びせることくらしかできそうにありません。最近はテレビであの顔を見ると、すぐに消してしまいます・・・。

 沖縄の基地移設問題において、欠落しているのは「独立国家としての矜持」だと思っています。そもそも、独立国である以上、外国の軍隊が自国に存在しているのを当然と思うのは大きな間違いです。米国は例えばドイツや、英国にも基地を持っていますが、米国は基地使用料を支払って「使わせて貰っている」です。貸す方としては、「貸してやってる」のです。ところが、日本はどうですか?「使って貰っている」だけでなく、「思いやり予算」だが何だか知りませんが、地主への基地使用料や米軍基地で働く日本人の人件費、挙句の果ては光熱水費まで肩代わりしながら、かつ「使って貰っている」のです。古今東西こんな独立国はないでしょう。この国からみれば、米軍は「番犬様」なのです。

 かつてフィリピンでは米国のプレゼンスがなくなって、時の政府と国民は大喜びしましたが、今フィリピン政府が困っているのは、米国の撤退と同時に出てきた中国海軍の傲慢な回遊です。どこだかを占拠されてもいます。日本でいえば、中国との領有権を争っている魚釣島みたいなところです。仮に米軍がこんな日本に愛想をつかし、日本から一切の軍事的プレゼンスをグアムまで後退させたら、またたく間に中国がでてくるでしょう。それと、北朝鮮の脅威もあります。

 今、一国だけで自国を守れるのは、米中露の三カ国くらいでしょう。他の大多数の国は一国だけでは自国の防衛が危ういと考えて、自国の国防軍の外に頼れる友として同盟国を持っているのです。その根本は、独立国ならば当然であるところの「自国の国防」意識と、それを担保する軍事力です。欧州は強大なソビエトの軍事力が崩壊し、かつてのワルシャワ条約国はこぞってNATOに加盟したがっています。欧州では軍事的紛争の危機は大いに薄まっています。あるのはテロ組織との戦いだけです。それでも「国防」ということをないがしろにはしていません。一方、アジアは違いますね。北朝鮮というテロ国家が存在し、毎年軍事費を増大し続け、しかもそれを公開していない不気味な中国の存在があります。そんな中で独力で国家を防衛するのはかなり困難です。やはり米国の軍事力は是が非でも必要です。しかしながら、この国はもう少し自国を防衛するに足る気概とそれを担保する軍事力をもう少し考えるべきでしょうね。少なくとも核武装までも真剣に検討すべきだと思います。

 かつて、「カルタゴ」という国がありました。今でいうチェニジアです。この国は経済的繁栄だけを追い求め、自国の防衛を全て「傭兵」に頼っていました。世界史でいう第1次から第3次までのポエニ戦争でローマに完全に滅ぼされました。ハンニバルとかスピキオとかいう将軍の名前は知っているかも知れません。

 この国がかつてのカルタゴにならないよう明確な舵取りが必要だと思います。

「戦い好まば国滅び、戦い忘れなば国危うし」と中国の古典にあります。
少なくとも、政治家には最低限の知識として国防に関する知見が絶対に必要だと思います。
やわらちゃんには無理でしょうね。

もうあほかと・・・。

2010年4月9日金曜日

執筆終了

すっかりとご無沙汰してますが、皆さんはお変わりありませんか。

2月から書き始めた本が、この日曜日にようやく終わりました。
7章構成で原稿用紙800枚ものボリューム。
我ながら驚いています。

執筆中、刑死した青年将校らの霊が僕に憑依して
気がついたら何十枚も書き進んでいた、ということは
ありませんでしたが、今は放心状態です。

ちょこちょこと、自分でも校正をすすめてますが、
これは果てがないですね。

一応、栗山さんにも頼んであるのですが、
なにせボリュームが多くて大変だと思うわ。

読みたい人がいたら連絡ください。
メールで送ります。
A4でも330枚ありますので覚悟してください。

あっ、テーマは「2・26事件」です。

田村さん、読んでねぇ・・・。